とある抗争で亡くなった組員の葬儀で出棺の際に、仲間が「親分の身代わりで死ぬなんて、男で逝けたんだから最高だ」と語った……。そうしたエピソードがまことしやかに語り継がれているように、華々しく散ることはヤクザにとって理想の最期であるとされることが多い。しかし、実際には目をそむけたくなるほど虚しく、残酷な結末の方が圧倒的に多数だ。
ここでは、別冊宝島編集部がさまざまなヤクザの生き様を詳らかにした書籍『日本のヤクザ 100の生き様』(宝島社)を引用。残酷な最期を迎えてしまったヤクザたちのエピソードを紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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自ら掘った穴で……ヤクザ史上最も残酷な殺戮
ヤクザは死から遠ざかることはできない――。
現在は平穏を取り戻したが、かつて沖縄ではヤクザたちが文字通り死闘を繰り広げていた。
1970年12月にそれまで覇権を争っていた地域ごとのヤクザのグループが大同団結し、沖縄初のヤクザ組織「沖縄連合旭琉会」(現・旭琉會)が結成された。
しばらく平和が続いたが、60年代に起きた抗争の功労者にもかかわらず、組織で冷遇されていた旭琉会理事の上原勇吉・上原一家組長は、新城喜史理事長に反発。理事会にも出席しなくなったため、74年に謹慎処分が出され、さらにはシノギも取り上げられた。これに怒りを爆発させた上原組長は旭琉会を脱会。翌月には配下組員らが新城理事長を殺害し、分裂抗争に突入したのだ。
親分を殺された新城一派7人は仇討ちのため上原組長を追った。だが、見つからないため、口を割らせようと上原一家組員3人を拉致。真夜中に沖縄本島北部にある国頭村(くにがみそん)に向けて車を北上させた。国頭村の山中で下ろすと、拳銃を突きつけて穴を掘るよう命じた。
4時間かけて掘った穴の底で3人は、新城一派に上原組長の居場所を聞かれた。だが、3人とも答えなかった、というより答えられなかった。本当に知らなかったらしい。しかし、新城一派は容赦しなかった。答えない3人に向かって冷酷に拳銃を乱射したのだ。3人は折り重なって倒れ、上から土をかぶせられた。この穴は3人の墓穴だったのである。
埋め終わって引き上げようとしたとき、穴の中から1人が血と泥に塗れて這い出てきたという。暗闇にうごめく姿に恐ろしさを覚えたのか、新城一派はドスでメッタ刺しにしたうえ、こめかみを拳銃で撃ち抜いてトドメを刺したのだ。ようやく動かなくなった組員を埋め戻すと、7人はその場から立ち去った。
数カ月後、事件が発覚。警察が穴を掘り返すと、遺体は白骨化していたが、凄惨な仕打ちや苦悶のなかで息絶えた痕跡がまざまざと残っていたという。殺人現場には慣れている刑事らも「あまりにも残酷」と絶句したとされる。ヤクザ史上、最も残酷な殺戮とされた沖縄抗争の一場面である。