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拳銃を突きつけて穴を掘るように指示 「あまりにも…」と刑事が絶句したヤクザ史上最も残酷な“殺戮”とは

『日本のヤクザ 100の生き様』より #2

genre : ニュース, 社会

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「ワシを生きて帰したら、お前ら皆殺しじゃ!」

 78年3月、高知市の隣町にある海岸の波打ち際で死体が発見された。だが、それは見るからに異様だった。荷造り用の麻ヒモで肩から足首までグルグル巻きにされていたのだ。さらに、顔やノドには鋭利な刃物による刺し傷が数カ所あったという。司法解剖の結果、死因は溺死、死亡時刻は深夜と推定された。そして遺体の身元は広島・尾道に本拠を置く俠道会(当時・森田幸吉初代会長)の池澤組(池澤望組長、現・三代目俠道会総裁)に属する滝下健夫幹部と判明した。

 70年に池澤組長は生まれ故郷に近い高知市内に俠道会高知支部を設立。しかし、高知は三代目山口組直系の中井組(中井啓一組長・山口組舎弟、のちに一和会最高顧問)や豪友会(中山勝正会長・山口組若頭補佐、のちに四代目山口組若頭)の本拠地でもあった。すぐに、豪友会との間で拳銃を使った激しい抗争が勃発。組織力に圧倒的な差がありながらも、池澤組長は果敢に戦いを挑み続けた。77年には池澤組を立ち上げ、さらに豪友会の神経を逆なでした。滝下幹部も何度となく豪友会組員らと命がけの勝負を重ねており、豪友会内では「根性者」としてよく知られていたという。

 そして、78年3月のある夜、繁華街で滝下幹部は豪友会の組員らと遭遇。そのまま車で拉致され、監禁された状態で激しい暴行を受けたとされる。味方のいない状況での袋叩きは、泣きを入れさせるには最適とされ、このときも滝下幹部が許しを請うのを豪友会側は待っていた。ところが、滝下幹部は一向に参った様子を見せない。それどころか、「ワシを生きて帰したら、お前ら皆殺しじゃ!」と叫び続けたのだ。このまま帰したら本当に殺されると感じたのか、豪友会組員らは海へ連れていき、溺死する危険を承知でそのまま放置したようだ。

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 尾道にある俠道会本部の大広間には歴代組長の写真とともに、組織に功績のあった組員の写真も飾られている。そのなかで、最も若い人物が滝下幹部だ。ヤクザには命より大切なものがあると、20代の滝下幹部は見る者に語りかけている。