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米軍の爆撃機が低空飛行して、激しい機銃掃射

 翌3日の午後2時頃、2隻の上空に米軍の爆撃機が姿を現した。2隻はちょうど、尖閣諸島の付近を航行中だった。

 爆撃機は一気に低空飛行に入り、2隻に向けて激しい機銃掃射を始めた。

 一心丸は備え付けられていたわずかな機銃で果敢に応戦したが、甲板にいた疎開民たちはあえなく薙ぎ倒されていった。その時の生存者の一人であり、当時、24歳だった大浜史という女性は、後にこう記している。

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〈今、目の前で助けを求めていた人の声がパッと消えて、その人の肉が私の顔や手足のいたる所にベトベトとついて自分が怪我をしているのか、それとも他人が怪我をしているのか見分けがつかない修羅の巷と化してしまいました〉(『市民の戦時・戦後体験記録 第一集』)

血の海と化した甲板、子どもたちは泣き叫んだ

 甲板上は一瞬にして血の海と化した。女性の絶叫や、子どもの泣き叫ぶ声で船上はまさに「地獄絵図」となった。

 米軍機はその後も攻撃を執拗に繰り返した。

 やがて、一心丸の船体から轟音と共に大きな黒煙が上がった。燃料タンクが爆発を起こしたのである(弾薬が爆発したという説も有)。

尖閣諸島の魚釣島に建立された遭難者慰霊碑(1969年5月10日) ©️共同通信社

 燃料タンクは船体の中央部にあったため、乗客たちは船の前方部と後方部に退避した。しかし、炎は一挙に燃え広がった。とりわけ船尾のほうが火の回りが早かった。

 爆発の結果、船内への浸水も始まった。行き場を失った乗客たちはやむなく、海へと飛び込んだ。

 しかし、彼らに安全な場所などすでになかった。波間に浮かぶ人たちに対しても、容赦のない機銃攻撃が浴びせられたのである。

 米軍機の搭乗員の目にも、一心丸が軍艦などではなく、その乗員の大半が民間人であったことは容易に認識できたはずである。しかし、疎開民への攻撃は一向に止まなかった。

 疎開船を含む民間船への攻撃は国際法で禁じられていたが、米軍は戦争末期、すでに「無差別攻撃」の段階へと入っていた。

 結局、一心丸は沈没。海の藻屑となった。

 生存者たちはなんとか波間に身体を浮かせようとしたが、老人や幼児など、体力のない者から海中に消えていったという。