昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2021/04/04

海に投げ出された乗客を救助した友福丸

 同様の悲劇は、友福丸でも発生していた。

 当時、3人の幼い子どもを連れて友福丸に乗船していた慶田城秀はこう回想する。

〈しばらくすると、敵の大型機が現われ、私たちの船に襲いかかった。バリ、バリッ……と機銃弾がそこらにはじけ、たちまち大騒ぎとなった。私はとっさに、おにぎりを入れてあった竹籠を息子(長男)の頭の上に置いてかばった。気づいてみると、なんと息子の首筋から右肩が真っ赤になっている。即死であった〉(『市民の戦時・戦後体験記録 第二集』)

 友福丸にも多くの犠牲者が発生した。ただし、友福丸では一心丸のような燃料タンクの炎上は起きなかったため、沈没は免れることができた。爆撃機が去った後、友福丸の船員たちは一心丸の乗客の救助活動に入った。

 船員たちは救助ボートやロープを使って、波間に浮かぶ人々を救出した。こうして漂流者たちは、友福丸に収容された。婦女子が優先的に救助されたという。

多数の負傷者を抱えながら漂流

 しかし、友福丸も機関部分を損傷していた。それでもなんとか航行を続けたが、やがてエンジンが停止。航行不能の状態に陥ってしまった。

 こうして友福丸は、大勢の負傷者を抱えながら尖閣諸島の沖合を漂流することになった。真夏の強烈な太陽が照りつける中、船上はうだるような暑さだった。生存者たちは深刻な水不足に苦しめられた。

(※写真はイメージ)©️iStock.com

 そんな中、一心丸で機関長を務めていた金城珍吉が、仲間たちと共に友福丸の機関部の修復を始めた。金城はこの時のことを後にこう綴っている。

〈初めからやりなおしでパイプ類をまげなおし石油タンクをデッキに上げ、それに長い棒をくくり付け四人掛りで、ポンプをおさせた。それが成功しバーナーが勢い良く吹き始めた〉(『沖縄県史 第10巻』)

「あの島には湧き水がある」尖閣諸島・魚釣島へ

 一夜明けた4日の午前7時頃、金城らの懸命の作業の結果、友福丸は再び航行する力を取り戻した。船内の人々からは、

「助かった!」

 といった歓喜の声があがった。

 友福丸が目指した先は、尖閣諸島の魚釣島だった。かつて鰹節の加工で賑わった魚釣島だが、この時は無人島になっていた。しかし、以前に鰹漁の際に魚釣島に滞在した経験があるという一人の漁師から「あの島には湧き水がある」という情報がもたらされたのである。

尖閣諸島の魚釣島 ©️時事通信社

 友福丸はこうして魚釣島に向かった。飲み水を確保することが、上陸の最大の目的であった。

 しかし、彼らの悲劇はなおも続くのである。(文中敬称略)(#2に続く)

この記事の写真(4枚)

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー