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カズオ・イシグロに阿川佐和子が聞いた 「初恋」と「私の中の日本人」

ノーベル賞作家が語った長崎時代

source : 週刊文春 2001年11月8日号

genre : エンタメ, 映画, 読書

note

イギリスでハリネズミのことばかり考えていた

イシグロ 僕の二作目の小説に、映画館に行くとき、いつもコートを持って行って、怖いシーンになるとそれを頭から被って観ないという小さな男の子が出て来るんですけど、あれは自分のことなんです。

阿川 へぇ。幼稚園で好きな女の子はいましたか。

イシグロ ちょっとまだ早い(笑)。先生が好きでした、田中先生(笑)。89年に来日して長崎に行ったとき、先生が会いにきてくれて、すごく嬉しかった。

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阿川 ほぉー。

イシグロ 私の小さな頃の記憶は、事件とか特別なことが残っているんじゃなくて、普通の日常生活の一コマが断片的にパッパッと蘇ってくるんです。たとえば祖父と、映画のポスターに描いてあるサソリを眺めて何か話してるとか、幼稚園で段ボールでロケットをつくってる友達の姿とか。

阿川 初めてイギリスに着いたときは、何に驚きましたか。

イシグロ 視覚的なことから言うと、色はかなり地味で抑えた感じで、緑が多いと思いましたね。長崎ではいつも畳に座る生活でしたから、椅子に座って食事をすることが新しかった。あとは日本の食事はバラエティに富んでいるけれど、イギリスはかなりワンパターンで、いつも同じようなものが出てくるなと(笑)。

阿川佐和子 ©文藝春秋

阿川 ハハハハハ。

イシグロ それから、着いた日の午後に、ハリネズミがあっちこっちウロチョロしているのを見つけたんですよ。

阿川 本物のハリネズミ?

イシグロ ええ。で、よく車に轢(ひ)かれちゃうんですよ。ペッタンコになったハリネズミの死骸が車道の端のほうに寄せられて、あちこち山になってるのを見るのがすごく奇妙な体験でした。

阿川 イギリスじゃ、町中にハリネズミがいるんですか、ヘエー。

イシグロ 何日か後に、初めてイギリス名物の2階建てバスの上の階に乗ったら、上からはまるで歩道の上を走っているみたいに見えるぐらい歩道寄りを走るんですよ。それで、「バスがこんな歩道寄りを走るからハリネズミが轢かれちゃうのかな」と思って、ハリネズミ問題は解決しました。イギリスに着いた最初の数日間は、ずっとハリネズミ問題を考えていたんですね(笑)。

子どもを甘やかさない環境

阿川 他には?

イシグロ 当時は、日本とイギリスでは子どもの扱いがまったく違ってた。イギリスはビクトリア朝の伝統で「子どもは姿は見えてもいいけれど、声が聞こえてはいけない」、つまりうるさくしちゃいけないんです。大人がいるところで子どもがワイワイ騒いだり、遊んだりするのは邪魔だという見方だった。

阿川 子どもを甘やかさないというか、厳しい。

イシグロ そう。親がすごく権限を持っていて、僕が友達の家に遊びに行ったときでも、すぐ親が「うるさいから向こうに行きなさい」と言うし、僕らがゲームをしてる最中でもおかまいなしに「やめなさい」って言って、「これをやれ、あれをやれ」と指示したり。

阿川 私の父もそうよ、今でも(笑)。

イシグロ ほんとに? 僕は長崎で自由に過ごしていたから、すごくショックだった。