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イギリスに骨を埋めるなんて感じはまったくなかった

阿川 でも、私はイシグロさんとほぼ同い年だから、お父上も大正生まれぐらいで、戦中派でしょう? ちょっと威張ってる「典型的な日本の父」っていう感じじゃなかったんですか。

イシグロ いいえ。うちは祖父が上海トヨタで働いていて、第二次大戦が始まったばかりの頃に日本に引き揚げてきたんです。父も上海というインターナショナルなコミュニティで生まれ育ちましたし、科学者ということで兵役に服したこともない。戦後はカリフォルニアの有名な海洋研究所で研究をしていましたから、伝統的な日本の父親像とはだいぶ違うと思います。だから、イギリスに住むと言ったんじゃないかと思うんですけど。

阿川 どんなお父様でしたか。

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イシグロ 朝はゆっくり起きてくるし、当時も今も何時間でもピアノを弾いていますよ。

阿川 優雅ァ、うちのお父ちゃんとはだいぶ違う(笑)。結局、ご両親もイギリスに永住されて、イシグロさんもイギリス国籍を取得されたんですよね。

カズオ・イシグロ ©文藝春秋

イシグロ はい。でも、最初は1、2年したら日本に戻ってくるんだと思っていたから、イギリスを祖国にしようとか、イギリスに骨を埋めるなんて感じはまったくなかったんです。

阿川 一時的に住んでるんだけだと。

イシグロ 毎年、「来年には、またおじいちゃんやおばあちゃんに会える」「僕は日本で大きくなるんだ」と思ってた。でも、時が経つにつれて、「もう故郷は背後に去ったんだ。僕の人生はイギリスにあるんだ」と気がついたんです。

阿川 いつ頃、気がついたんですか。

イシグロ 15歳のとき。父がハッキリずっとイギリスに住むと決断を下したので、私も覚悟したわけです。大人の父にしてみればわずか10年ですけど、子どもの私にしてみれば、5歳から15歳の10年はとても多感な時期で、全然違う重みがあります。結局、それが小説を書くことに繋がりましたし。

卓球していて気付いた「私の中の日本人」

阿川 多感な時期に不安的な気持ちはありましたか。

イシグロ 私はアンデンティティ・クライシス、つまり、自分はいったい誰なのかという問題で悩んだことはなかったです。すんなりイギリスの日本のコミュニティに入ることもできれば、私の周りにいるイギリスの若者たちとも仲良くやっていけたし。

阿川 じゃ、あんまり日本人であることを意識しなくてすんだ。

イシグロ 一度だけ、私はやっぱり日本人なのかなと思ったことがありましてね。私は卓球の選手をやっていて、(ラケットを握る真似をして)こういう西洋式のチェイク・ハンド・グリップ(丸型のラケット)ですごくうまくプレーしてたんですよ。それが、14歳のとき、日本人はラケット(角型のラケット)をペンのように持つと知って。

阿川 えっ、あれって、日本式なの? 私も卓球部だったけど知らなかった。

イシグロ 日本式なんですよ。あとプレースタイルも違った。イギリス人は、ボールにスピンをかけたりして、ゆっくりしたペースで、ディフェンスに力を入れて優雅にやるけど、日本人のやり方はものすごくスピード感がある。

阿川 (昔とった杵柄で、すごいスピードで素振りして見せる)

イシグロ そうそう(笑)。私もなぜか日本人のチャンピオンを意識して、自分もそういう風になろうとペン・グリップで早いプレーを一生懸命練習してしまった。うまくいかなかったけど(笑)。

(#2〈カズオ・イシグロが語った“僕のセールスプロモーション”〉に続く)

カズオ・イシグロ/1954年長崎県生まれ。60年父の仕事にともない渡英。ケント大学カンタベリー校で英文学を学び、イースト・アングリア大学大学院で創作を学ぶ。82年長編第一作『遠い山なみの光』が王立文学協会賞、86年『浮世の画家』がウイットブレッド賞、89年『日の名残り』でブッカー賞を受賞。95年『充たされざる者』に続き、00年長編第五作『わたしたちが孤児だったころ』(早川書房)が世界各国でベストセラーに。

構成:柴口育子