人は誰しも必ず死を迎える。しかし、その瞬間がいつ訪れるかはわからない。今回紹介する一見直吉というヤクザも最期の瞬間を迎えたのは突然だった。上機嫌の帰り道に、敵対するヤクザに襲撃され……。その最期は文字を追うだけでも恐ろしい壮絶なものだ。

 ここではノンフィクション作家、山平重樹氏の著書『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』(幻冬舎アウトロー文庫)を引用。殺し屋に狙われた武闘派ヤクザの鮮烈な“死に様”を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む

 ◆◆◆

ADVERTISEMENT

短気、剛直、一本気の武闘派

 大正11年4月14日、浅草の料亭で遊んだ一見直吉は、女将たちの見送りを受け、いい気分になって表に出た。

 明治3年生まれの一見直吉は、このとき52歳。浅草を基盤にして博奕打ちとなり、明治30年ごろ、鼈甲家(べっこうや)一家を興し、初代の親分となった。一家の名の由来は、もとは鼈甲細工師で、通称を鼈甲屋と呼ばれていたのを一家名にしたという。

 もともとは生井一家の貸元である青木粂次郎の若い衆で、同じ青木門下の平井兼吉、小林卯八とともに浅草三羽烏といわれ、千束町一、二丁目と浅草公園を3人共有の縄張りとしていた。

 ところが、他の二人と違って、一見は突出した武闘派として事件を起こすことが多く、生涯の大半を刑務所で送った親分である。そうした短気で剛直、一本気、人と容易に妥協しない性格が災いして、敵も少なくなかった。

人力車の行く手をはばんで現れた刺客

 事件はその夜、一見が料亭を出て間もなくして起きた。

 料亭前で、ほろ酔い加減の一見を待っていたのは、小田原提灯を手にした、黒の腹掛け脚絆(きゃはん)姿の車夫であった。車夫は、一見が人力車に乗りこんで幌の中へ腰をおろすのを見届けると、提灯を轅(ながえ)の先に掛けて、

「あらよっ!」

 と掛け声とともに俥(くるま)を曳きはじめた。

 幌の中で深く身を沈め、いい気持ちで揺られていた一見は、少し走ったあとで急停車したものだから、何事かと前方へ目をやった。

 車夫は呆然として突っ立ったまま声も出ない。轅に掛けられた小田原提灯が日本刀や槍を手にした4、5人の男たちを照らしだしている。刺客たちであった。

 そのうちの先頭に立つ男が、“人斬り直”の異名をとった中村直彦だった。河合徳三郎の身内で、今日でいうところのヒットマン、殺し屋的な存在であった。