跡目争いに端を発した暗殺劇
では、なぜこのような凄絶な殺しが行われたのだろうか。
一説には、横浜から流れてきた通称“トッピン”というヤクザ者を、一見が強引に引き抜いて自分の配下にしたことによる遺恨ともいわれている。トッピンとは、10・1のことで、10対1の喧嘩でも勝つほどの猛者という意である。
また一説には、縄張り争いが原因であったとする向きもあるのだが、甚だ信憑性に欠けている。
他の説をとるのは、“愚連隊の元祖”万年東一で、万年は後年、自著の『人斬り懺悔』のなかで、この事件をこう活写している。
《浅草一帯に縄張りをもつ高橋金次郎も、鼈甲屋・一見直吉を殺る計画に参加していた。出羽屋・山本周三もこれに参画し、殺し屋中村直彦が兄弟分の立場でそれを代表した。
一見直吉を殺る理由は、出羽屋の跡目に横浜方の山本周三がなったことによる。河合徳三郎が口をきき、各親分がこれに従った。しかし、獄中にいた鼈甲屋は、頑として首を縦にふらなかった。
「俺が懲役中の話じゃねえか。山本なんてどこの馬の骨か知らねえ奴を認めるわけにはいかねえよ」
簡単な理由だ。話し合いですむことだったのに、それがそうはいかなかった。
「おい、助けるなよ」
なまじ斬っただけじゃあとくされが残る。やる以上はロクにしちまえというのが、河合から中村直彦にだされた命令だった。
鼈甲屋暗殺の決死隊は、3人ずつ10組に分かれて結成された。30人の決死隊は、それぞれ連判状に署名したが、中村直彦は徒党をくむことをきらって署名しなかった。
「こうなることは、とうにわかっていたんだ。冗談言うな。一見が強えたって鬼じゃあるめえ。俺は死ぬ覚悟よ。それでなくっちゃ、カカアを芸者にだして別れるこたあねえだろう」
中村は、女房を浅草の日野屋に売りとばしていた》
ともあれ、人斬り直こと中村直彦は、この事件によって懲役15年の刑を受け、市ヶ谷刑務所に服役している。
「教唆した人間の名をいったら7年で済む」
という弁護士の言葉をはねつけ、
「いや、覚悟のうえですから、全部自分一人で背負います」
と肚(はら)をくくった結果だった。殺したほうも殺された側も、ともに肚のすわったヤクザであったわけだ。
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