昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2021/04/12

 河合徳三郎といえば、半博徒の談合屋として知られ、土建業をはじめ、のちに大都映画なども興し、興行界にも絶大な力をふるった大親分である。戦前から戦後にかけて「関根組にあらずんばヤクザにあらず」と謳われるほど強大な勢力を誇った関根組組長、関根賢の親分でもあった。戦後、関根組は解散し、松葉会として再建されるが、その家名と代紋は河合徳三郎の家紋に由来するものだった。

槍が引かれ、続いてドス、日本刀が…

 さて、“人斬り直”こと中村直彦が、人力車の中の一見に声をかけた。

「鼈甲屋さんでござんすね」

 車夫があわてて轅をおろし、人力車から離れた。

「誰だ!?」

 と、一見も幌から出ようとした。その足が地面につくかつかぬかのうちに、一見は突きだされた槍をまともに腹に受けた。

「うっ」とうめいたが、切っ先がその脾腹(ひばら)を抉っていた。

写真はイメージです ©iStock.com

 槍が引かれ、続いてドスや日本刀を持った男たちが一見に躍りかかってきた。身に寸鉄も帯びていない一見は、それでも一人に組みついてやろうと飛びかかったが、刺客たちの動きはすばやかった。

 腹から腸が飛び出るほどの傷であった。気丈な一見はそれを中へ押しこみながら、奮戦したのだが、ついに力つきて倒れてしまった。

医者への「どうも御苦労さんでした……」が最期の言葉

 刺客たちはすばやく姿を消し、一見が大学病院に運ばれたときには、手のほどこしようがなかった。何人かの医者がかわるがわる傷を調べても、もはやなすすべもなかった。

「どうも御苦労さんでした……」

 医者たちに向けられた一見の最期の言葉だった。そのまま眠るように息をひきとったのである。

 後日、その話を聞いた斉藤一家五代目の山田政雄は、

「あいつもいいゴロツキになって死んだよなあ」

 と漏らしたという。性根のすわったヤクザらしいヤクザ──と一見直吉を評価したわけである。