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「確かに拳銃を使っての自決も可能だったはずです。が、それをやれば、死んだ後も銃刀法違反の問題が生じ、関係者が警察から拳銃の入手ルート云々ということで、とやかく詮索されることになる。そんなことを気遣うのが龍馬親分という人でした」

 こう証言するのはとある消息通である。

自決の遠因は内部抗争に端を発した傷害事件

「龍馬親分の優しさというのかな、残された周りの者たちに迷惑を掛けないように気を遣い、あえて柳刃包丁による自死を選択する。絶命まで7時間以上を要する、極限の苦痛の果ての自死を選んだのです。まさに武士の死ですよ」(前出・消息通)

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 鈴木龍馬会長補佐が自決に至った遠因は、その1年前の9月18日に起きた事件とされている。

 同日午後2時過ぎ、東京・赤坂の大日本興行本部事務所を訪れていた約20人のうち、口論の果てに1人が突然拳銃を発砲。事務所にいた大日本興行会長が、腹や首などに5発以上の銃弾を受けて重傷、同最高幹部も頭部を打撲したほか、別の幹部も軽いケガをした。

 撃ったのは、同じ大日本興行系列組織の者で、いわゆる内部抗争であった。結果2人が実行犯として赤坂署に出頭し、他に現場にいた4人が傷害容疑で逮捕された。そのうちの1人が龍馬会長補佐であった。

 発砲した側の組長は住吉会から絶縁処分を受け、龍馬会長補佐は破門となった。絶縁された組長は、龍馬親分の古い舎弟であった。

写真はイメージです ©iStock.com

ヤクザ人生を左右した、45年前の因縁の事件

 因縁とは恐ろしいものである。その事件は龍馬親分にすれば自分も現場に居合わせた、昭和31年3月6日に起きた「浅草妙清寺事件」の悪夢の再現と映ったかもしれない。向後平、高橋輝男という当時の住吉一家最高幹部同士がともに銃弾に倒れた45年前の事件である……。

 向後平は向後睦会の初代にあたる親分で、その二代目を継承したのが当時の住吉一家六代目総長である、住吉会西口茂男総裁である。高橋輝男は大日本興行の初代総長で、龍馬会長補佐はその末子にあたる若い衆でもあった。

「龍馬さんが決定的な影響を受けた親分が高橋輝男で、末子ということもあり、ずいぶんかわいがられたと聞いている。不良少年時代は『銀座の鈴木龍馬』として名前が知られていたと言うが、小林会初代の小林楠扶会長の舎弟となったのが縁で、高橋輝男一門に連なることになったようだ。

 浅草妙清寺の抗争現場にも居合わせ、事件にも関わっており、この一件で彼は結構長い懲役刑を受け、宮城刑務所に服役している。事件のことは生涯の痛恨事として、その後のヤクザ人生を大きく左右したし、最後の最後まで胸の傷あととして残ったのは確かだ」(関係者の話)