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――70年代でも?

山下「それはね、(共演する)人による。松木さんと一緒の時は、絶対に飲まない。厳しい人だったからね。松木さん自身は飲むんだけど(笑)」

――相手を見る。

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山下「見るんです。『PONTA BOX』(※80~90年代にポンタ氏が組んでいたジャズトリオ)とかだと(メンバーに)甘えちゃう。とにかく寂しがり屋なんですよ。いつも誰かがそばにいないとダメ。飲んでクダを巻くようなことがあっても、『うるさい、ポンタ!』と一喝すると、シュンとするようなところがあった」

――出会った頃からずっと、ですか。

山下「いや、最初は接点らしい接点はなかった」

「赤い鳥」のポンタはやたらと手数が多かった

――ルネ・シマールのツアーで、初めて共演されたとか。

山下「その前に『赤い鳥』(※ポンタ氏がメンバーだったフォークグループ)の生(演奏)を観てるんですよ。ヤマハの店頭イヴェントだったかな。ギターが(大村)憲司で、ベースは誰だったか覚えてない。その時はポンタだとはわかってなかったけどね。わからないけど、スイングのワルツで、やたらと手数が多かった」

(※手数=ドラムが一定のパターン演奏を繰り返す中でアクセントとなる即興的フレーズを叩く、その回数や音数)

村上“ポンタ”秀一氏

――その当時から、手数が多かったんですね。

山下「はっきり意識するようになったのは、自分がコーラスのスタジオ・ミュージシャンをやるようになってからなんです。ポンタが演奏しているレコードがとにかく多かった。直接仕事をしたのはルネ・シマールが最初だったけど、その頃はすでにポンタはすごい売れっ子だったからね。知り合いって感じじゃない。本当にスタジオ・ミュージシャンの“スター”だったから」

――そのあたり、当時の現場を知らないとわからない感覚です。

山下「僕らの世代にとって、スタジオ・ミュージシャンでドラマーと言えば、まずポンタだった。その前は石川(晶)さんで、60年代のスタジオ仕事で印象的なものは、ほとんど石川さんが叩いていたと言っても過言ではない。あの頃の歌謡曲のレコードには、ミュージシャンのクレジットなんて一切ないですからね。

 そもそも“スタジオ・ミュージシャン”って呼び名さえなくて、要はバンドマン。アメリカの“レッキング・クルー”やモータウンの“ファンク・ブラザーズ”と同じで、演奏印税なんてものはなくて、すべて現場での『取っ払い』。スタジオで5年稼ぐだけ稼いで、スナック持ってやめるというのが、バンドマンのライフスタイルだった。

 そうした中で、僕らのような(既存の歌謡曲のシステムから距離を置いた)いわゆる日本のロックやポップス、サブカルチャーから出てきた音楽には、もう少し違うミュージシャンとの連携があった。歌手だけじゃなく、演奏する側にも記名性が出てきたんです。それまでは完全分業。作曲家の先生が歌手を育てて、作詞家と組んで曲を書く。レコーディングとなれば、レコード会社のディレクターが『ドラム1人、ベース1人』って仕出し屋の感覚でミュージシャンを集めていた」