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「LOVE SPACE」「DANCER」……山下達郎が厳選した故・村上“ポンタ”秀一「ベスト・ドラム」

山下達郎ロングインタビュー#3

2021/04/11

 日本を代表するドラマー、村上“ポンタ”秀一さんが3月9日、入院先の病院で亡くなった。70歳だった。

 1970年代にリリースした「SPACY」や「イッツ・ア・ポッピン・タイム」などのアルバムで、スタジオミュージシャンとしてポンタ氏を起用していたシンガーソングライターの山下達郎さん(68)が、20代の当時から気鋭のミュージシャンとして同じ時代を生きた“戦友”との思い出について振り返った。

 インタビュアーは音楽ライターの真保みゆき氏。真保氏は、ポンタ氏がデビュー30周年にあたって出版された自伝本「自暴自伝」(2003年、文藝春秋刊)の構成を手掛けた。

#2より続く)

ポンタと離れたのは、ギャラが高いのと……

――レコーディングって、そもそも「記録」じゃないですか。「ポッピン・タイム」を聴いていると、そうした言葉本来の意味にものすごく合致しているなと。まさにこの時代でしかあり得ない。

山下「そうですね。この時から何カ月後かで、坂本くんはYMOになってるんで。78年12月26日に渋谷公会堂でやったコンサートが、このメンバーでの最後のステージだった。ちょうどそのタイミングで、アオジュン(青山純・ドラマー)と伊藤広規(ベーシスト)のコンビが登場してきたんです。それでようやく、僕は自分だけのリズム・セクションを持てるようになった」

山下達郎氏

――時代の節目を感じます。

山下「それでも80年代の末には、今度は青山のスケジュールが取れなくなる。スタジオ・ミュージシャンとして、トップクラスになってたから」

――達郎さんですら。

山下「うん。ポンタたちと離れたのだって、要はギャラが高いのと、あとはやっぱりスタジオ・ミュージシャンでしょう。指名すれば誰でも使えるんです。誰の持ち物でもないから。結果、同じリズム・セクションで録音されたら、差別化ができなくなる。同じメンバーを呼んで『達郎のアレみたいにやって』と注文することが常態化してきていた。僕、それがすごく嫌で」

――達郎さんのレコーディングがリファレンス化されてしまった。

山下「されちゃったんです。だから自分だけのリズム・セクションが欲しかった。その時ちょうど青山純と伊藤広規が来たので、この二人で布陣を固めれば完全に差別化できると思った。リハーサルも存分に出来るし。まあそれも、90年代に入ってから、乗っ取られることになるんだけど」

――結局、そこまでのレベルに達したミュージシャン自体、そう多くはいないということなんでしょうか。

山下「そうかもしれない。だから『SPACY』から『ポッピン・タイム』にかけて、一応自分なりの色合いの音が構築できたのは、非常に価値あることではあったんです。ただ、ミュージシャンって気難しいからね。機嫌は取らなきゃダメだけど、機嫌を取ってるだけでもダメ。彼らをどうその気にさせるか。そのためには、ある意味きりきり舞いさせなくちゃならない。かと言って僕はヴォーカル・ミュージックをやってるわけだから、技術的には難しいけど、作品的には簡単に聞こえる音楽を作らなきゃならないんです。その塩梅がね、難しいのよ(笑)。勘どころというか」

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