実はこの私。生命線がものすごくハッキリとしていてしかも長い。また、最近はすっかり耳にしなくなった“スタップ細胞”だけれども、遠くない将来、いずれ実用化される日はきっと来るに違いない。そんなこんなでこりゃ300年ぐらいは俺、イヤでも生きちゃうよというのが、酒の席などでのお得意のネタだったのだが、さすが古希ともなった今日この頃、そのあたりの“展望”にもいささか自信が持てなくなってきた。
というのも、ここのところそう簡単には死なないだろうと思っていた先輩方が、あっけなく相次いで鬼籍に入られてしまった。
コロナを知らずに天国に召されたジャニーさん
更に申せば“平均寿命”まで、俺ももう10年そこそこ('08年の癌の手術から寛解する’17年までの9年の早さを思えばそれもきっとあっという間だろう)である。60代の頃にはそこまで持つことのなかった“リアリティ”がひしひしと迫ってくるようになったといえばいいのか、湧き上がってきたといえばいいのか。ともかく、人生の無常というものを実感するようになった。
まぁ、ここから先、未来に何が起こるかはわからないから、300年生きる可能性ゼロとはいわないが……。この歳になり少しは地に足のついた考え方もできるようになってきたのかしらんね(笑)?
閑話休題。
ジャニーさんが87歳で亡くなられたのは一昨年のこと。あの頃我々の暮らしていた世界は今とは全く別のものだった。ジャニーさんはコロナを知らずに天国に召されたのかと思うと、何故かちょっぴり切ない気持ちにもなってくる。
そんなことを思っているうち、ジャニーさんの姿を最初にこの目で見たときのことがよみがえってきた。
’70年代、日劇ウエスタンカーニバルのリハに現れたジャニーさん
’70年代初頭、私は日劇ウエスタンカーニバルに出演することとなり、その本番の前日に出演メンバー全員が集まっての合同リハーサルというのが、日劇の「本三」(本当の3階の意)にある稽古場でおこなわれた。
建物の裏側にある通用口から乗り込んだ、大道具も楽々と積める業務用エレベーターから降りると、そこは日劇舞台とおそらく同じ広さの、ガランとした、壁の一面には尺いっぱいの鏡という作りの板張りで、きっと普段はここで日劇ダンシングチームが、振り付けのお稽古などにいそしんでおられるのだろう。
そこにそれこそ、当代の人気者たちが一堂に会して、演出家の前で出し物を披露するというのだから、これはなかなか滅多には見られない光景である。私は、平静を装いつつも、内心では超ワクワクしながら、音出しの順番を待っていた。
その頃のウエスタンカーニバルはというと、興行としての勢いは既にいっときほどもなく、また台頭してきたジャニーズ事務所と看板ナベプロがシノギを削りあうという状況の時期でもあった。そんなピリピリとした力関係や微妙な背景の存在するにも関わらず、仕切っておられた構成演出の松尾准光さんの、カジュアルでニュートラルな持ち味のおかげで、「本三」の現場は、どこかのんびりした空気のなかで進行していた。