’80年代、たのきんトリオの奇跡的大ブレイク
そうして、’80年代。ご存知たのきんトリオの奇跡的ともいえる大ブレイクと共に復活(はちょっと失礼でしたかね?)を遂げるジャニーズ事務所であるが、私がジャニーさんと初めてちゃんと話をすることになるのは、実はこの時なのである。
元々TVドラマをまったく観ない生活の故、たのきんのたの字も知らぬ俺に声をかけてくれたのはポニーキャニオンのディレクターで、学校の後輩にあたる羽島亨であった。
羽島は、本気でアイドル歌謡命! の、人懐っこく熱い、しかも歌うのが大好きという、なかなかに濃いキャラクターの男なのだが、とにかく田原俊彦というのがものすごい上り調子の人気だといい、そのアルバムを作るので手伝って欲しいと頼まれたのである。
それで打ち合わせをするということになると、ジャニーさんメリーさん揃い踏みで、しかも他にはスタッフは無し。お二人だけで俺ごときが仕事をしているスタジオにまで直接足を運んで来てくれたのだから、いま思えばすごい時代である。何がすごいかといって、要するに当時、事務所はそのぐらいの規模なのであったと……。
アルバムでは、楽曲提供の他に、私はトシちゃんとおしゃべりもしている。ちょっと面白い仕上がりになっていると思うので、興味のある人は中古盤でも探してみてくださいませな。
ジャニーさんとどのような打ち合わせをしたのかは、もうよく思い出せないのだが、踊れるものがいいといったぐらいの話で、書き上げたあとも、ダメ出しは何もなかった。全体にまだ色々なことがシステム化されておらず、どこか家内工業的なノリで作業が進行していったような気がする。まさに良き時代であった。
そうだ。蛇足になりますが、終始ジャニーさん、私のことは「近田くん」で、残念なことに「you」は一度も出なかったです。
“たのきん現象”からのジャニーズ進撃
田原俊彦に続き近藤真彦と、超のつく人気者をラインナップに揃えることとなったジャニーズの進撃は、皆様もご存知の通り、この後はとどまるところを知らない。
おそらくこの“たのきん現象”を境に、ジャニーズへの社会の認識は別物となっていった。いい換えるならば、それまでのジャニーズにつきまとっていた、妖しさというのか、どこか特殊な匂いのする芸能プロダクションといったイメージが、ここにきて払拭されたと思うのである。
今日、ジャニーズといったとき語られるのは、おそらくはこれ以降の活動の話が中心になるのであろう。
そうした文脈のなかで、ジャニー喜多川の天才ぶりの発揮が何より実感されるのは、先にもチラリといった人の活かし方、それに尽きる。
適材適所というコトバがあるが、ジャニーズという塊を遠くから眺めたとき、それはまさしく“適材適所”の集大成といって決して過言ではないからだ。
ソロに向くのかグループが合っているのか? グループではリーダーを誰にするのかといった、それぞれの役割分担の仕分けも見事に決まっているし、見た目のフォーメーションも、人数から何から、他の絵面が考えつかぬほど鉄壁だ。そしてそのすべてに於いて采配を振るっていたのがジャニー喜多川そのひとただ一人だったのであるから、氏の“特異な才能”に異論を唱えるものは、もはや居るまい。