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「で、オンナの話はどうよ?」追悼・村上“ポンタ”秀一 語りたがった森高千里と吉田美和

「で、オンナの話はどうよ?」追悼・村上“ポンタ”秀一 語りたがった森高千里と吉田美和

『自暴自伝』インタビューの思い出

2021/03/21

 フォーク、ニューミュージック、J-POPからジャズまで、あらゆるジャンルの音楽を手掛けた日本を代表するドラマー、村上“ポンタ”秀一さんが3月9日、入院先の病院で亡くなった。70歳だった。デビュー30周年にあたり、2003年に文藝春秋より出版した自伝本「自暴自伝」の構成を手掛けた音楽ライターの真保みゆき氏が、その思い出を振り返った。

キャンディーズ、郷ひろみ、ピンク・レディーから山下達郎、松田聖子、中森明菜、泉谷しげる、沢田研二、矢沢永吉、井上陽水、桑田佳祐、ドリカムまで、日本ポップスの黎明期を築いた巨匠ドラマー、村上“ポンタ”秀一さん

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 村上ポンタさんが亡くなった。

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 知ったのは、去る3月15日、月曜の早朝のこと。知人によるSNSへの投稿がきっかけだった。当初は詳細もわからず公式サイトでの発表もなかったとあって、しばらくは半信半疑の状態。ポンタさんの親しい友人であり、数え切れないほどの共演歴を持つミュージシャンによる書き込みが加わるに及んで、ようやく「本当だったのか……」。そう確信したお昼過ぎ、オフィシャル・サイトを通じて、実は3月9日に永眠されていたことを知ることになる。享年70。2月8日、視床出血で入院。以来、意識が戻らぬままの死去だったという。

およそ半年間、10回に及んだインタヴュー

 と、こう書いていながら、正直、いまだに実感できていないところが私にはある。2003年、年の瀬もおしつまった頃出版されたポンタさん初の自伝本、その名も『自暴自伝』(文藝春秋)の取材および構成を担当。およそ半年間、10回に及んだインタヴューの中で「何度か死に損なった」と、今にして思えば壮絶な逸話を(どこか冗談のように)語るのを幾度か耳にしていたからで、不謹慎とは思いつつ、だいぶ以前、青山のライヴ・スペースの通路で久しぶりに再会した時のように、派手なイタリア製のシャツに葉巻をくわえた姿に、今一度遭遇しそうな気がしている。豪快でバンカラ。巷間伝えられることが多かったそうしたキャラの向こうに、ちょっとした遠慮というか独特の気遣い(と言いたくなる程度にはわかりにくい)のようなものを、ちらりとのぞかせるんだよね、そういう時のポンタさんって。

 いきなり私信めいた書き出しになってしまったが、一方で「有名なドラマーさんだったんですか。色んな人と共演してるのに、全然知らなかった」と驚いていた若い友人もいる。今さらながら、一応かいつまんで紹介しておくと。

Facebookより

 村上“ポンタ”秀一。1951年1月1日、兵庫県西宮市生まれ。72年、「翼をください」で知られる“赤い鳥”のバンド・メンバーとして、プロのドラマー生活を開始。以来、時にバンド・メンバー、時にセッション・ドラマー、そして音楽プロデューサーとして、アイドル歌謡からJポップ、ジャズ・フュージョンからアヴァンギャルドまで、ジャンルを超えて八面六臂に活躍。ダイナミックかつ多彩なドラミングは、キャンディーズや郷ひろみ、沢田研二、矢沢永吉、井上陽水、山下達郎、桑田佳祐など、数え切れないアーティストのスタジオ録音やライヴ音源で聴くことができる。

「俺が俺が俺が、と言ってるのが俺のドラム」

 キャリアを通じて叩いた曲は、1万4千以上を数える。70年代半ば、長らく滞在したニューヨークでは、マイルス・デイヴィスほか現地のジャズ・フュージョン人脈とも交流。同じドラマーのスティーヴ・ガッドとは特に仲が良く、匿名でレコーディングの代役を務めるほどだった。

 すごいのは“数”だけに留まらない。死去に際してやはりSNSでシェアされていた赤い鳥時代のライヴ動画に、ドラマーとしての特質がすでに表れていて、3分足らずの演奏ながら、両手足を振り乱して叩きまくる導入部からして「強烈」の一言。まだハタチそこそこ。幼気が残る面差しと、「こなくそ~!!!」と言わんばかりのドラミングとのギャップが微笑ましくもあるけれど、かと言って中央に立つ山本潤子の透明な歌声は、微塵も損なわれていない。そこにこそ驚かされる。

「俺が俺が俺が、と言ってるのが俺のドラム」。インタヴュー中にも繰り返しそう豪語してやまなかったポンタさんだが、実は“歌”を重んじることにかけては、他の追随を許さない稀有な“歌伴ドラマー”でもあった。