「歌詞をあらかじめ読まずに、いいドラムなんか叩けない」。そんな理由で、レコーディングを断ったこともあったという。まだまだセッション・ドラマーが「雇われ」と認識されていただろうアイドル歌謡全盛期に大変な鼻っぱしらだが、単なる“流れ作業”の一部ではない、この「俺」のリズム、グルーヴで、彼ら彼女たちの歌を輝かせてやろうじゃないの。そうした自負の念も、武勇伝の向こうから浮かんでくる。
山下達郎を軸とする細野晴臣、坂本龍一らとの交遊
同じ70年代でも後半を迎えた時期、アルバム数作に参加した山下達郎を軸とする交遊録も、山下が“Jポップの大御所”としての立ち位置を盤石なものとしていく、その直前の蠢動を伝えてくれるようで、取材していてワクワクさせられた記憶がある。今や“和製レア・グルーヴ”の名曲として海外でも人気が高い「ラヴ・スペース」でベースを弾いているのは、後年YMOで大化けすることになる細野晴臣。ポンタとのコンビネーション自体、山下たってのリクエストだったという。
細野が参加していない代わり、今度は坂本龍一が鍵盤で大暴れする2枚組ライヴ・アルバム『イッツ・ア・ポッピン・タイム』は、世間的にはまだまだ無名の域にあったミュージシャンたちによる“新しい音楽”を求めてやまぬ熱量を捉えた、78年当時の貴重なドキュメント。ブレッド&バターの曲をカヴァーした「ピンク・シャドウ」で聴かれる、ヴォーカルと演奏陣との「寄らば斬るぞ」的な緊張感あふれる掛け合いなど、この時代以外あり得ないよな、と思わずにいられない。ポンタいわく、「『ポッピン・タイム』を作ったからこそ、達郎は『ライド・オン・タイム』で様式美に徹するふんぎりがついたんだと思う」。70年代後半、怒涛の時代を共有したポンタだからこそ言える一言だろう。
そう思うと、大ヒットした『ライド・オン・タイム』にポンタの姿がなかったのも象徴的。あれだけ“歌”にこだわっていた一方で、様式美が完成しつつあると見ると、新たな地点を目指して旅立ってしまう。ジャンルレスと思えたポンタの活動を貫いていた美意識があったとすれば、そこなのだろうなと思う。
「で、ポンタさん、オンナの話はどうよ?」
音楽ライターとしては、どうしても音楽にまつわるお題にフォーカスしてしまうのだが、もうひとつ、これは『自暴自伝』刊行以前、周囲から盛んに訊かれた質問がある。「で、ポンタさん、オンナの話はどうよ?」。私自身は遭遇せずじまいだったが、「美女を両脇にはべらせて飲み歩いていた」的な伝説を耳にする機会は、実際インタヴューする以前から、たしかに多かった。本が出た後も、「そういう話は出なかったの?」と、いぶかっていたのだろう、あやしむように問いただしてくる向きも、少なからずいたし。
この際なので、書いておきます。インタヴュー中、興が乗ると、主として70年代の武勇伝の一部として、そうした話題に及ぶことは、それなりにありました。特に最初の2~3回ほどは。今だから白状すると、そこに釘を刺したのは、何を隠そう、この私だった(笑)。理由としては、録音テープの書き起こしをプロの友人に時間契約で依頼していたことがひとつ。ライオンのオスの「こないだガゼルをこんだけ倒しちゃってよ~」的な自慢話の文字起こしに、あまりおカネはかけられない。予算上のそんな問題があったのです、はい。