「文春な……。俺、若いころ東京におって、後楽園の裏のほう、地下鉄のそばに岩波書店の倉庫があったの。あそこでちょっと働いとったよ。労働組合というのが、出版労連とかっていうやつな。あの連中はな。きつかったなあ、岩波文庫は(笑)」
「大阪には、忘れ物を取りに来た」
岩波書店と文春は無関係だが、出版ということで思い出されたようだ。ともあれそんなわけで、おふたりは東京で知り合ったらしい。ただし、ご主人の斉藤俊紀さんは青森出身だそう。青森~東京~大阪とは、ちょっと極端な移動の仕方だが、なぜ大阪に来たのだろう?
「なんていえばいいかなあ。大阪には、忘れ物を取りに来たっていうか(笑)」
なかなか素敵な表現である。
「高校のときの修学旅行が、関西コースと札幌コースと、ふたつあったの。うちは弘前の郊外の農家だから、関西に行きたかった。高校3年だから昭和33年ぐらいのころかな。でも、そんな(大阪に行くだけの)現金なんかあるわけないから、札幌コースにしたの。札幌は2泊3日なのに、関西行くと1週間だ。本州は時間がかかるからね。だから、そのとき関西コースに乗れなかったもんで、いい加減年取ってから、『どうせなら関西を見て、そこで往生しよう』みたいな(笑)。で、そのまんまね、居ついちゃったという」
大阪に移住したのは30歳のとき。48年も経っているわけで、もはやすっかり大阪人だ。
「わしらの年代は、そういうのけっこうおりますよ。日本の景気がよくなってね。要は『ディスカバージャパン』というさ、旅行みたいな。いまのGo Toと似たような感じで、旅行ブームがあってね。そのときにみんな動いてね」
ただ、先ほどの岩波書店時代がそうであるように、大阪に移るまでにはいくつかのプロセスを踏んできた。人生の助走期間があったというべきか。
30代で“脱サラ”して飲食店修業
「もともと、東京で10年ばかりサラリーマンをしとったんだけども。先が見えたというか(笑)、なにかしてみたくなってな」
そこで大阪に移り、桃谷の飲食店で修業をした。
「2年ばかり住み込みで修業したというか、中華を教え込まれたという雰囲気ね。ほんとは寿司屋をやりたいというのがあったんだよ。で、寿司屋へ行ったらね、飯炊くまで10年、お茶入れ3年とかね、湯沸かし1年とかね。30になってからそれをやったんじゃ、青春、終わってしまうよ(笑)。で、俺より4つぐらい年上の人が、『じゃあ、俺が3週間で中華を教えてやるからよ』というから、『じゃあ乗った!』っていうようなもんでだな」
ユルいのである。だが若いころなんて、多かれ少なかれみんなそんなものだ。ちなみに、若いころには「ちょっと棒を持って、走りまくった時分」もあったらしい。