この街に何があったのか?
結局、この日は廃墟についての手がかりは何も得られずに終わった。ただ、魚市場はたしかに営業しているものの、周辺の廃れた雰囲気が終始気になった。帰宅してから調べてみると、私が訪れた下之一色は、そもそも漁業で栄えた街だということが分かった。
この地の漁業の歴史は、江戸時代まで遡る。当時は庄内川が度々氾濫し、大きな被害をもたらしていた。そこで尾張藩は庄内川を分流させて、新川を造った。下之一色はその2つの川に挟まれることになり、伊勢湾にもほど近いことから、やがて漁師町として発展してゆく。
その後、大正元年に鉄道の敷設が始まると、この地を訪れる業者が急増した。カレイやハマグリ、ワタリガニ、クルマエビなど多くの魚介類が水揚げされ、最盛期を迎えた昭和初期には“名古屋の台所”と呼ばれるようにまでなった。漁港の近くに設けられた魚市場は大いに賑わい、遠方から買い付けに来る行商人も多かったという。賑わいは魚市場に留まらず、市場の周辺には船や海産物の問屋も建ち並び、商店街は人で溢れていた。
漁師町としての終焉
そのように漁師町として活況に満ちていた下之一色だが、時が経つにつれて徐々に陰りが見えてくる。戦後、庄内川の上流側に製紙工場ができると水質が悪化、漁獲高は減少した。また、昭和34年に伊勢湾台風が猛威を振るったことをきっかけに、高潮防波堤を建設することとなり、同時期に伊勢湾の埋め立て計画も進行していたことから、漁師たちは漁業権を放棄した。
下之一色漁協は昭和39年に解散し、漁師町としての歴史に終止符が打たれた。鉄道も昭和44年に廃止された。以後、他の漁港から仕入れた魚介類を販売する魚市場だけが残った――。
そうした衰退の過程で、多くの冷蔵倉庫が廃墟となり、空き地となったようだ。活気を失った商店街は、わずかな店舗が往時の面影を留め、哀愁を滲ませている。
今年3月、その魚市場も閉場すると知り、再び現地を訪れた。