犯行から1カ月半後に逮捕
澤地は獄中で手記を発表し、事件の詳細を明かした(『殺意の時』彩流社)。その後、死刑囚の生活を書いた『死刑囚物語』(彩流社)、死刑制度を問う『なぜ 死刑なのですか』(つげ書房新社)なども遺している。
当時取材した記者によれば、澤地らは宝石商を殺害した後、付けていた指輪が取れなかったため、指ごと切り取って持ち帰っていた。それをブローカーに持ち込んで換金を依頼したが、指輪には肉片が付いたままだったと語られているという。
最初の犯行から1カ月半後、警視庁の捜査員が澤地と李を逮捕。金貸しの女性の家族が捜索願いを出し、澤地が乗せた車から足が付いたと見られる。
死体さえ見つからなければ裁判で有罪にならない――繰り返し澤地にこう言われていた不動産業者は、2人の逮捕を知ると、知人を連れて山中湖の別荘へ向かった。床下を掘り返し、2つの死体をそれぞれ布団袋に入れて麻縄で縛り、車に積んで約50キロ離れた秦野市の山林へ行って埋めた。
しかし澤地らの自供により不動産業者も逮捕され、警視庁の捜索隊は死体を収容した。雑木林の斜面に埋められ、落ち葉で覆われ、穴が掘られたことすら分からない状態だったという(朝日新聞84年12月1日)。
逮捕から3年後、澤地と不動産業者に死刑、李に無期懲役の判決が下った。不動産業者は控訴、上告が棄却された。澤地も控訴を棄却されて上告したが、93年7月に上告を取り下げて死刑が確定した。
当時、後藤田正晴法相が3年4カ月ぶりに死刑執行の命令書に署名し、澤地は抗議を込めて取り下げたとしたが、面会に来た弁護士には「最高裁まで争わないほうが(死刑を)執行されにくい」と話したという(朝日新聞93年7月21日)。その通り15年近く執行されなかったが、2007年10月に胃ガンが見つかり、翌年12月、多臓器不全により東京拘置所で死亡した(敬称略、李は仮名)。