都内だけで行方不明者はゴマンといる。仏(ホトケ)さえ出なければ、警察は捜査しない――。
元警察官らがこう考え、連続殺人事件を起こしたのは1984年10月のことだった。
主犯は、警視庁の機動隊員などを経て警部に昇任し、40歳を過ぎて退職した澤地和夫だった。
割烹料理屋を開業し、膨らんだ借金
退職して3カ月後、かねてから考えていた割烹料理屋を新宿駅西口で開業した。
開業資金の4000万円はほぼすべて借金。国民金融公庫、2つの信金、ノンバンクなどから借り入れ、現職警察官5人が保証人になってくれた。身の丈を超えた借金の額だったが、警察官が安心して飲める店として繁盛した。開業前の不安は消え、澤地は金融機関への元金返済を半年間据え置く一方、元同僚警察官には料金を格安にして、閉店後に従業員を引き連れて飲みに繰り出し、ぜいたく品も購入した。
しかし元金返済がはじまると赤字が累積しはじめ、すぐに高利のサラ金に手を出すようになる。警察官にも金を借り、何人かは、公務員として禁じられているサラ金の保証人になってくれた。入居していたビルの家主が倒産し、預けていた保証金2500万円が焦げ付く不運も重なった。暴力団関係者にその取り立てを依頼したが失敗する。
開業3年後、金策に走る日々が続いた末に閉店に追い込まれた。
澤地の借金は1億5000万円にのぼり、そのうち5000万円は元同僚警察官など個人に借りたものだった。
借金返済に追われながら、さらに深みへと
頼った警察官は20人を超え、1000万円の借金を抱えて自宅を差し押さえられたり、警察の信用組合から700万円を借りて日々の生活費に事欠く人まで出た。ノンバンクは保証人となった警察官が勤める本庁や所轄署に、土曜日の午後に返済を求める電報を打つなど嫌がらせを繰り返し、皆、澤地に泣きついた。
閉店後、澤地は借金返済に追われながら様々なブローカーや金融屋と知り合い、彼らを利用し、逆に騙されながら、深みにはまっていく。
数カ月後、「椅子に座っているだけでいい」と暴力団関係者に誘われ、月50万円の報酬でビデオの生テープを扱う会社の社長に就いた。それは、商品を仕入れて売りさばいた後に倒産する、取り込み詐欺が目的のペーパー会社だった。また、暴力団関係者に100万円の手形の割引(現金化)を頼まれた時には、手にした現金を借金返済に当ててしまい、小指を詰めるハメになった。
再起をかけ、金融会社社長に100万円を借りて千葉県津田沼市で調査会社を立ち上げたが、仲介者に事務所の家賃をネコババされた。