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由緒ある宿場「岩淵宿」

 北本通り、国道122号は江戸時代の日光御成道をルーツとしている。“御成道”の名の通り、徳川将軍が日光参詣をするときに通る街道だ。そしてその街道の最初の宿場町が、だった。

 江戸から各地に伸びる街道の最初の宿場町は江戸の守りも担う重要な役割を担う。千住・板橋・内藤新宿・品川は江戸四宿と呼ばれてたいそう賑わったという。岩淵宿はこれらと比べると地味だったが、徳川将軍が通行するときにしか荒川には橋が架からず、普段は渡し船を使っていたからなのだろうか。いずれにしても、明治初期の地図を見ると、北本通りの荒川手前に市街地が形成されていたことがわかる。つまり、「岩淵」の名は由緒ある宿場の名を後世に伝える地名なのである。

 

 対して赤羽側はどうか。赤羽駅のすぐ西側には崖がある。山手崖線という武蔵野台地の突端で、高さは約20mにも及ぶ。線路は崖の下を通り、崖上の赤羽台は明治以降陸軍の施設が開かれて“軍都”として発展した。軍の施設は戦後になって住宅地として生まれ変わって、ほとんど往時の面影はない。

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 こうした歴史をたどると、赤羽駅の東側に広がる商店街や市街地は、古くからの“岩淵宿”と近代以降の宿場にあたる“赤羽駅”をつなぐ、そんな存在なのではなかろうか。

 

鉄道のなかった時代と鉄道が通った時代

 ただし、いくら岩淵に歴史があっても鉄道交通の要衝となった赤羽の引力にはかなわない。すっかり町の中心は赤羽に移ってゆく。そうした中で、戦後の住居表示施行にあたり、岩渕町はすべて「北区赤羽」に改められることになる。

 しかし、岩淵はそもそも天下の御成道の宿場の名。その名が消えることに住民たちが激しく反対し、岩淵町の一部が赤羽入りを免れて今でも「北区岩淵町」として残された。赤羽岩淵という駅名は、赤羽と岩淵町の境界を成す北本通りに設けられた駅としてのいわば合成駅名。でも、住居表示ですべてが赤羽に飲み込まれていたら、赤羽岩淵駅は生まれなかったのかもしれない。

赤羽駅

 そんな鉄道のなかった時代と鉄道が通った時代、その移り変わりの悲哀を感じることができるのが、南北線の終着駅なのである。赤羽に行く機会があれば、あえて南北線で赤羽岩淵駅を目指し、赤羽と岩淵の境をさまよってみるのもおもしろいものである。

写真=鼠入昌史