熊本の象徴のような文化財だけに、修復を通じて理解を深めてほしいと考えた。
基本計画の策定(18年3月)段階で634億円もの事業費が見込まれた巨額工事だ。苦しんでいる被災者がいる一方での執行には、市民理解が必須だった。
「熊本に大きな地震はない」との思い込みがあった
熊本城の生々しい被災現場や復旧工事を見ることで、地震の記憶を刻み続けてもらいたいという願いもあった。このため、完全に復旧してしまうのではなく、崩落などの被災現場は一部であってもそのまま残せないかという議論がある。城戸さんもそう考えている。
熊本県内には地震が起きるまで、「熊本に大きな地震はない」という思い込みがあった。「地震がない」というセールストークで企業誘致を進めた自治体もある。人々には、そうした油断への悔恨が残った。
決して地震が起きない土地ではなかった。熊本市が市制を施行した1889(明治22)年、市内の金峰山付近を震源とする「金峰山地震」が発生し、21人が犠牲になった。熊本城のダメージも大きく、崩落した石垣は42カ所にのぼったという。
にもかかわらず、地震は忘れられ、逆に「地震がない」という迷信が行政関係者にまで浸透した。地震の記録が乏しく、口伝えの伝承もなされなかったのだ。
熊本地震の「語り部」として
「今度こそ語り継がなければ」と話す人は多い。しかし、発災から5年が過ぎ、記憶は次第に薄れつつある。
そうした中にあって、20年間も続く熊本城の修復は、復旧工事そのものが被害を語り継ぐ手段になるはずだ。被災箇所を残すことができれば、熊本の象徴たる城が身をもって地震の破壊力の大きさを伝えることになる。
4月26日に全面公開される天守閣の内部では、金峰山地震の展示コーナーも設けられる。
熊本城は「復興のシンボル」であるだけではない。
熊本地震の語り部でもあるのだ。
撮影=葉上太郎