1953年にNHKが初めて募集したテレビ女優の第一号としてデビューした黒柳徹子さん。1958年には自身初となるNHK紅白歌合戦の紅組司会を務め、1961年には第1回日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞するなどテレビの第一線で活躍し続けてきた。1971年、働きづめだった仕事を休んでNY留学することを決意。将来の夢は「いい母親になること」だった彼女が女優になり、アメリカに留学することを決めた理由とはーー。
黒柳徹子氏の著書『チャックより愛をこめて』(文春文庫)から一部抜粋して紹介する。(全2回中の1回。後編を読む)
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【A】 アメリカ
いま私は、アメリカでこの手紙を書いております。くわしくいうと、アメリカはニューヨーク、ニューヨークはマンハッタン、マンハッタンは西七十三丁目、セントラル・パークまで歩いて二十メートルの、小さいアパートの五階の、またまた小さい部屋の、台所に近い椅子の上で、書いているのであります。
テレビの仕事と別れて、もう二カ月以上になります。日本をたったのは一カ月半くらい前ですが、ヨーロッパを廻り、最後にオランダのロッテルダム・フィルハーモニーオーケストラでヴァイオリンを弾いてる弟に二年ぶりで逢い、生まれて八カ月の彼の息子のお守りを十日ほどして、やっと一週間まえに、このニューヨークにたどりついた、とこういうあんばいなのです。これから私は、ここに一年いるつもりでいます。その間に、毎月「アルファベットだより」をお送りします。一年は十二カ月で、アルファベットは二十六ですから、Aから始めて毎月、二つずつ、時には三つ、お送りすれば、だいたい一年でZまでいく、という計算になるので、それで「アルファベットだより」としたわけなのです。
私がどうして女優になったのか
さて、何故アメリカに来たのか、ということを、最初にお話ししたほうがいいと思って、Aはアメリカにしました。それには、まず私がどうして女優になったか、ということから始めましょう。
私は「女優になろう」なんて、だいそれた望みなど持ったことは一度もなく、自分とは無縁の職業と思っていました。ところが、ある時偶然に、人形劇を見ました。大人の人たちが指人形を動かしながら、歌ったり喋ったり汗だくになってやっています。その頃、私はオペラ歌手になるべく音楽学校に入ったのに、ちっとも声はよくならないし、曲も込みいってくると間違えてばかりいるしで、オペラ歌手になれる望みはまったくなく、しかも卒業は近づくで、なんとなく憂鬱な気分でいたのでした。人形劇を見て喜ぶ子供たちを見て、結婚して母親になったときに、こんなふうに上手に話のしてやれるお母さんになりたい、とふと思いました。