1953年にNHK放送劇団に入団し、テレビ女優としてデビューした黒柳徹子さん。『夢であいましょう』や『若い季節』など数々の人気番組に出演し、テレビの第一線で活躍を続けてきた。1971年、働きづめだったテレビの仕事を休み、ニューヨークに留学することを決意。長い休暇も海外生活も一人暮らしも何もかもが初めての経験だった彼女が「サービスもここまで行きとどけば完璧!」とまで感心したニューヨークのプレイボーイたちの言葉とはーー。
黒柳徹子氏の著書『チャックより愛をこめて』(文春文庫)から一部抜粋して紹介する。(全2回中の2回。前編を読む)
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【G】 ガール
ニューヨークで見る若い女の子は、本当に若い果物という感じがします。私のおつきあいしている家にも、たくさん年頃の女の子がいますが、みんな、のびのびと健康的な身体つきで、見ているだけで「若いって、なんていいんだろう」と思わせてくれます。なんにもお化粧していなくて洗いっぱなしなのに、頬っぺたはピンクで、そばかすのある子もいるけれど、みんな輝くような肌で、見れば見るほどきれいで、清潔です。
この年頃の女の子のファッションは、といえば、揃って髪の毛は真中からわけて長くたらし、おへその出るくらい短いセーターにブルージーンズ、と決まっています。そして靴は、ウォーキングシューズというのか、茶色の革でできていて、底などタンクのキャタピラのようにゴロゴロしているのか、または日本でも戦後、流行した高いヒールの紐などついているのをはいています。
そして、彼女たちは、この格好で、パーティにだろうと、ディナーにだろうと出かけようとするので、母親や父親と衝突するのです。母親にしてみれば「こんないい年頃の娘が、昔のようにピンクのリボンなんかつけて、女の子らしいスカートなんかはいてくれたら、どんなにうれしいだろう。でも、そんな、だいそれた望みは持つまい。せめて、その茶色の兵隊のようなドタ靴と、しみだらけのジーンズだけは、ぬいでもらえないかしら!」と思い、また父親は「そんなジーンズに紐つきのハイヒールは、あわないからよしなさい。その靴が流行した頃のファッションはよく知っているが、髪の型といい、オーバーといい、スカートといい、もっとずーっと女らしいものだった。お前のは、醜いというんだよ。ぬぎなさい!」と叫ぶのです。