日本で最高峰の“夜の街”銀座の灯りが消えて久しい。
昨年、1回目の緊急事態宣言が発令された頃は、銀座の高級クラブが危機的状況、などと盛んに報道されていたが、いまや話題にのぼることも少ない。
コロナが収束しても、以前のようには戻らないと誰もが諦めつつあるいま、ホステスたちも銀座に見切りをつけ、地元に戻ったり、他の仕事を始めたりしているという。
しかし、ずっと夜の世界で生きてきた女性は行き場がないのも事実。そこで銀座でホステスとして25年間も働き、いま生活苦にあえいでいるという女性に話を伺った。(取材・執筆=素鞠清志郎)
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「今年55歳になりました。一度も結婚はないです。ずっと銀座で働いていたので……」
中田裕子さん(仮名)は銀座ナンバー1のホステスだったというが、にわかには信じられない。着ているものも地味で、髪も雑なパーマ。喋り始めると、どことなく浮世離れした雰囲気が漂うが、パッとみた感じでは「夜の蝶」の面影はまったくない。
「18歳のときから25年くらい、ずっと銀座のクラブでホステスをしていました。若い頃は景気も良かったので、華やかでしたね。稼ぎはいちばんいいときで月500万円くらい。一晩での記録は300万円です。当時は築地にあった家賃30万のマンションに住んでました。お店まで歩いていけるくらいの場所でしたけど、移動は全部タクシー。出勤前には美容室に行って、お買い物をして、夜はお店、という毎日でした」
中田さんは、18歳の時に上京し、そのまま夜の銀座に飛び込んだという。
「同居していた私の叔母がキャバレーを経営していて、小さい頃から水商売が身近だったんですよね。たまに叔母がお店終わりにお寿司とか焼き鳥をお土産で持って帰ってきてくれて、『ホステスになるとおいしいものが食べられるんだな』って思ってました。
それで私もホステスになりたい、どうせなら銀座で働きたいとずっと思ってて、高校卒業して、専門学校に行くということにして東京に出て、すぐに銀座で働きはじめました」
当時は昭和の末期。まだ景気も良く、銀座の敷居も高かったという。
「あとから、銀座は誰もが働ける場所じゃないって知りましたけど、私は求人雑誌を見て飛び込んだら、運良く採用していただけて、日給1万2000円からスタート。毎日休みなくお店に出てました。当時の銀座って土曜日も営業していたんですよ。お客様は半ドンで、お昼で仕事が終わり。なので、土曜日は昼から同伴で映画見たり、料亭でお食事したりしてましたね」
中田さんは才能があったのか、すぐに人気ホステスとなり、界隈で一目置かれる存在になったという。
「私自身はちょっとワルそうな男性がタイプなんですけど、ホステスとしてはそれじゃいけないと思って軌道修正して、役職のある真面目そうなサラリーマンにターゲットを絞ったんです。そういうお客様は、長く通ってくれますし、接待でもお店を使ってくれる。そういう質の良いお客様に贔屓してもらえるかどうかが大事でしたね」