肺動脈から流れ出してこなかった血液
この溢血点を見る限り、斉藤さんの心臓は、何かの原因で急に止まったようだ。
警察によれば、彼女に既往症はなく、亡くなる前日まで普段通りに働いていたという。両親と同居しており、朝、ベッドの上で冷たくなった彼女を最初に見つけたのも母親だった。太ももが黒くなっている理由を母親に聞いたが、見当もつかないという。
疑問を抱えたまま、解剖を始めた。肋骨を切って、胸腔を開く。心臓につながる大きな血管を順番にメスで切っていき、体から心臓を取り出す。
この作業を行っている際、私はあることに気がついた。通常、血管を切ると、その切り口からはドロドロとした血液が流れ出してくる。ところが斉藤さんの場合、心臓から肺に血液を送る肺動脈から、血液が流れ出してこなかったのだ。
切り口を確認すると、血液が固まっていた。直径が2センチはある肺動脈に、血のかたまりがぎっしりと詰まっている。引っ張り出すと、かたまりは10センチもの長さだった。
解剖で心臓を切り出す際、時々、血液が固まっていることがある。死後時間が経ってしまったために血液が固まることがあり、これを「凝血」と呼ぶ。
肺動脈にある血のかたまりが単なる凝血であれば、それはただの死後の変化にすぎない。しかし、彼女の場合、結膜にあった溢血点から急死が考えられた。そうすると、凝血が起きていることとつじつまが合わないのだ。
法医学では、溢血点以外にも急死した遺体の特徴が知られている。これを「急死の3徴候」といい、ひとつは「溢血点」、そして「臓器のうっ血」と「流動性の血液」だ。急死した遺体では、血液は死後も流動性=固まらないという性質がある。つまり、彼女の肺動脈の中にあった血液のかたまりは、生前にできたものと判断される。
当然、生きている時に肺動脈の血液が固まれば、「急性肺動脈血栓塞栓症」により死んでしまう。斉藤さんの肺動脈にあった血液のかたまりは、血栓だったのだ。
この血栓ができた理由。それこそが、太ももに広がった真っ黒な出血だった。