なんの手も施さず、がんを放置していた証
そもそも「潰瘍」とは、「体の一部(主に皮膚や粘膜の表面)がくずれてできた傷」を指す。 「胃潰瘍」や「十二指腸潰瘍」という病名は多くの人が耳にしたことがあるはずだ。「潰」は「くずれること」、「瘍」は「体の傷やできもの」で、周囲の組織を壊す、深い傷を意味している。
彼女の左乳房は陥没し、その代わりに腫瘤と呼ばれるかたまりが体の表面にぼこぼこと現れていた。
この「潰瘍」の原因が乳がんなら、おそらく周りのリンパ節や臓器にも転移が確認できるはず。私はまず、胸郭(胸を囲う骨格)の前の助骨を取り除き、彼女の胸の中をのぞくことにした。
開いて見えた彼女の胸壁には、白いがん組織がブツブツとくっついている。そのがんは肺にも転移していて、死因はやはり「乳がん」で間違いなかった。
所見で明らかだったがん性皮膚潰瘍とは、皮膚に浸潤(発生した場所で増え続け、周りの器官に直接広がっていくこと)、もしくは転移、再発したがんが体の表面に現れ、潰瘍化した状態を指す。乳がんに起こりやすいともいわれているが、潰瘍化にまで至るのは転移性がんの5~10%程度で、決して多くはない。楢原さんがなんの手も施さず、がんを放置していた証だといえた。
彼女の乳房がかつての豊かな膨らみを失ったのは、もうずいぶん前のことに違いない。
乳がんの症状はさまざまあるが、周囲に転移が認められたことから、立ったり歩いたり、腕をあげたりといった日常的な動作にもかなりの痛みを伴っていたのではないかと思われた。
楢原さんがなぜそこまで痛みにひとりで耐えようとしていたのか、私にはわからなかった。