目にうつらない、生きているか生きていないかわからないヤバイもののせいで、京都のおとなもこどもたちも、自由に集まったり食べたり笑い合ったりできなくなった。
少年野球の大会は自粛、練習も自粛。
野球少年たちは河原や公園のすみで自主練習にはげむ。家に帰れば、野球中継に釘付けだ。阪神タイガースは、引き分け1試合はさんで、デーゲームを14連勝中。ただし、テレビ画面にうつる甲子園のスタンドには、応援団も、大阪のおばちゃん風ユニフォームのおばちゃんも、タテジマでそろえたファミリーも誰もいない。
京都市中京区うまれのヨシオくん
京都市中京区うまれの少年ヨシオくんにとって、野球は、別のヤバイもののせいで無理だった。大阪は焼け野原だった。京都にもまばらではあるけれど爆弾が降ってきた。ヨシオくんはお母さんの実家がある亀岡市に疎開した。1945年3月のことだ。
戦後、中京区にもどってくると、市内には進駐軍の兵士が闊歩していた。平安神宮のある岡崎公園には、アメリカ軍将校のための銀色のカマボコハウスが建ち並び、フェンスのむこうでは、若い兵士たちが真っ白なボールを投げ合っていた。
ヨシオくんは1946年、京都二商にすすみ、はじめて野球部にはいった。はじめは球拾いばかりだったが、白球に触れるだけで嬉しかった。素早いその身のこなしは在学中から評判を呼び、プロ球団からも注目を浴びはじめた。
学制改革で二商が廃校となり、編入した府立山城高校でももちろん野球部に。2年生の夏、遊撃手として甲子園大会に出場する。スタンドを覆っているはずの鉄傘は、戦中に供出されたままだった。太陽の光と観客たちのシャツで視界は真っ白に溶けていた。ぽかんと見あげる空はひたすら広かった。
35年後、対ヤクルト24回戦、ヨシオくんは阪神タイガース監督として、その同じ空に手をさしあげ、7度宙を舞う。
京都市右京区うまれのシンジロウくん
1969年、右京区うまれのシンジロウくんの場合、歩きだすころにはもうボールを投げ、グローブとバットで遊んでいた。お兄ちゃんとお父さんが野球の先輩だった。小学4年生ではじめて少年野球のチームにはいり、新品のユニフォームに袖を通した。
いまも「僕にとって一番のコーチであり一番のファン」というお父さんは、「打てるという強い気持ちを持つことが大事だ」と、シンジロウくんにくりかえし、くりかえし告げた。シンジロウくんはお父さんの教えを守りつづけた。打てる、打てる、と強い気持ちで念じながら、ひたすらバットを振った。
名門、平安高校の野球部に入部。京都大会1回戦で、進学校の洛星に0−1で敗戦。呆然となる。が、またあの声がきこえる。くちびるを噛み、立ちあがる。強い気持ちでバットを振る。振りつづける。
2013年の秋、甲子園球場に代打を告げるアナウンスが響き、シンジロウくんはプロ選手としての最終打席を迎える。やることはただひとつ。強い気持ちでバットを振る。白球はその気持ちをのせ、まっしぐらにライトスタンドへと飛んでいく。
代打の神様に、野球の神様がこたえた、希有な瞬間。
いまは自身も地元京都で少年たちの指導に当たっている。透明に光る子どもたちの目をのぞきこみながら、シンジロウくんはきっと、日々、同じことばを囁いている。「気持ちや。打てる、ていう、強い気持ちを持つことが大事やぞ。なっ」。