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“相模原のヒーロー”菅野智之は中学時代、どんなピッチャーだったのか

文春野球コラム ペナントレース2021

2021/05/18

「菅野智之の中学時代のピッチング、見ていましたよね? 1本書いてもらえませんか」

 4月下旬、巨人監督・菊地選手からメールが届いた。何でもありの『文春野球』であるが、「菅野の中学時代」とは予想外のオーダー。どんな切り口で書こうかと悩んでいたところ、菅野は5月7日の試合中に右肘に違和感を覚え、一軍登録を抹消された。こんなときに、中学時代を振り返ってもいいのだろうか……。

 少しモヤモヤした気持ちの中、菅野が育った相模原市立新町中時代の恩師・内藤博洋先生(現・相模原市立相陽中野球部監督)に連絡を入れると、胸に刺さる言葉をくれた。

「相模原の中学野球が衰退しないのは、菅野の存在が大きいと思います。部活動から、菅野のような選手が育った。私たちが、子どもの頃に原辰徳さんを目指したように、今の子どもたちの目標は菅野。菅野は相模原のヒーローであり、新町中のヒーローなんです」

菅野智之

試合後、菅野は誰よりも泣いていた

 相模原で生まれ、鶴の台小(東林ファルコンズ)、新町中、東海大相模と、地元で育ってきた菅野。相模原市は中学軟式野球が盛んな地で、1998年から相模原市の公立中が神奈川大会8連覇を達成。その後やや低迷期があったが、2014年に内藤先生が率いる大沢中が全国中学校軟式野球大会ベスト8に入ると、2017年からは大野北中、新町中、緑が丘中・大野台中と、3年連続で関東大会出場(県上位2校)を果たした。

 菅野の母校・新町中を指揮するのが、東海大相模OBの星野直人先生だ。2000年センバツ優勝メンバーであり、菅野の先輩にあたる。星野先生もまた、内藤先生と同じ想いを持っていた。

「うちの野球部にとって、菅野の存在はとても大きい。子どもたちの憧れであり、目標。部員が書く自己PRの欄に、『好きな選手=菅野智之』と書いていた生徒もいました」

 2016年オフには、読売新聞の企画で、菅野がサプライズ訪問してくれたこともあった。

「あのサプライズをきっかけに、部員が増えました。一時期、2学年で14人まで減ったのが、今は3学年で38名。本当にありがたい。菅野が育ったこの野球部を弱くしてはいけないという気持ちは、常に持っています」

 自己紹介が遅れたが、私は中学軟式野球と神奈川を中心にした高校野球をメインに取材に取り組んでいる。プロ野球選手の名前を見ると、「丸佳浩=勝浦中」「近藤健介=修徳中」と自然に脳内変換してしまう癖がある。

“自覚”が芽生え始める中学生。この時期に野球選手としても人としても、土台が作られるのではないか……という推論を立てている。“原点”とでも言えばいいだろうか。

 過去のスコアブックを開いてみると、菅野の中学時代を初めて見たのは2003年の7月20日。横山球場で行われた相模原市大会の準々決勝、対東林中だった。先発した菅野(当時2年)は5回途中1失点と試合を作り、チームも2対1で勝利。「原貢さんの孫」「おじさんが原辰徳さん」というバックボーンは、そのころから有名だった。

 ひょろひょろとした細身の右腕で、右打者のアウトコースの制球が抜群。何よりも、マウンドさばきが堂々としていて、ふてぶてしさすら感じた。圧倒的な力はまだなかったが、投球センスを感じるピッチャーだった。

 中3夏には、関東大会ベスト8入り(最速127キロを計測)。県大会準決勝では、最終回に同点二塁打を打たれるも、相手のランナーがホームベースを踏み忘れ、得点は取り消し。試合後、菅野は誰よりも泣いていた。強気に見えた投手・菅野とのギャップ。きっと、15歳なりに背負っていたものがあったのだろう。