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 ここではバランスが大事でもあります。いくら危機が訪れているからといって、文の構造を崩壊させたり、老人が狂気に陥ったりすれば、読者はついていけなくなって興ざめでしょう。ここでは文章も心理も、危機的な状態ではあってもこちら側に踏みとどまっています。そのぎりぎりの感じ、「今にもわからなくなりそうだけど、まだ何とかわかる」という感覚がこの場面を力のあるものにしています。そのようにぎりぎりの理性につなぎとめられていればこそ、決めの一節も生きてきます。老人がついにマカジキを仕留める場面は次のように描かれています。

極端な心理世界の表現

 Then the fish came alive, with his death in him, and rose high out of the water showing all his great length and width and all his power and his beauty.

 すると魚は内に死を抱え持ったまま生き生きと現れ、高く水面から飛び出して長く広い体の力と美しさとを見せつけた。

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 ここは文章としては簡潔に見えるかもしれませんが、the fish came alive, with his death in himとか、showing all his great length and width and all his power and his beautyという部分には、日常感覚の超越が見られます。常識的な感覚では理解できない境地が描かれているのです。しかし、これまでの「境界の曖昧さ」や「乱れ」をへてきた読者は、こうした感覚を十分に受け入れることができます。まさにこのような地点にまで上り詰めるためにこそ、今までの「乱れ」があったとさえ言えるのかもしれません。

『老人と海』の主人公は孤高の人で、そう簡単に他人には弱みを見せません。心のうちを明かさない。素朴な言い方をすれば、何だか愛想がない。しかし、どうもこの人は何かを隠し持っていて見せないというわけでもなさそうなのです。というよりは、内側と外側の境界の作られ方がふつうの人とはちがうらしい。その内面は実は巨大で、人間などはるかに超えて魚や海にまで及び、それらと混じり合ってしまう。そんな極端な心理世界をこの一節は表現しえているのではないでしょうか。

英文学教授が教えたがる名作の英語

阿部公彦

文藝春秋

2021年4月27日 発売