終戦前日の1945年8月14日。満洲に侵攻したソ連軍に、徒歩で避難中だった日本人が襲われ、戦車に下敷きにされるなどして1000人あまりの民間人が殺される事件が起きた。なぜ悲劇は起きてしまったのか。昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の2回目/#1を読む)
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「我々一行は非戦闘員だ。撃たないでくれ!」
グループを率いていた興安総省参事官の浅野良三は、白旗を用意してソ連軍に向けて掲げた。伝えられるところによると、浅野は、
「我々一行は非戦闘員だ。撃たないでくれ!」
という意味の言葉を叫びながら、戦車に近づこうとしたという。
しかし、そんな浅野の身体を無数の銃弾が襲った。浅野は射殺された。
戦車の数は10台以上に及んだ。土煙を上げながら、轟音と共に縦横無尽に走り回る。人々は逃げようとするが、身を隠せるような建物などもない。
「かあちゃん!」
「助けて」
そんな声があちこちから聞こえてくる。ソ連兵は「マンドリン」と呼ばれる自動小銃を乱射した。わずかな兵器しか持たない日本側には、反撃する力もなかった。当時、国民学校の1年生だった川内光雄は次のように語っている。
〈私は、当時三十二歳だった母に抱かれ、大きな溝に転がり込むように逃げました。左肩に銃弾を受け、「痛い」と振り向いたとき、すでに母は頭に銃弾を浴びていました。「おかあさーん」「おかあさーん」と母の体を夢中で揺すりました。母は、ばったりと倒れました。背中にすがりつき、わんわん泣きました。妹ともはぐれました。(略)一晩中、母の遺体の横で、泣き明かしました〉(「西日本新聞」2005年7月19日付)
子どもも老人も……無抵抗な民間人が狙われた
辺り一帯には、生きているのか死んでいるのかさえわからない人々の身体が無数に転がっていた。戦車はそれらを踏みつけながら走った。
葛根廟の丘で行われたのは、無抵抗な民間人への明らかな虐殺であった。
そんな攻撃は、午後になっても続いた。
ソ連兵たちは倒れている日本人を見つけると、蹴飛ばしたり、銃で突いたりして生死を確認した。息がある者には銃弾を撃ち込むか、短剣を突き刺したりした。この時の様子を当時、国民学校の1年生で、馬車に乗せられていた守田隆一はこう記録している。
〈お父さんとお母さんが撃たれてしばらくすると戦車がとまり、何人ものソ連の兵隊が降りてきて、倒れている人や逃げていく人を片っ端から撃ち殺してゆきました。
一人の兵隊がとうとう馬車まできました。そして、一緒に乗っていた病気のおじいさんを引きずり降ろすと、パァーンと頭を撃ちました〉(『朔北の学友』)
子どもだろうが老人だろうが、ソ連軍の攻撃に見境はなかった。戦車のキャタピラに轢かれて膝から下をつぶされた人も、容赦なく殺されたという。
子どもを亡くした母親であろう、精神に異常を来たしたと思われる女性の金切り声が辺りにこだました。