田辺銀冶の真打お披露目と奉納講談が神田明神で行われた。
当日は、五月晴れの中、カズ(三浦知良)からのお祝いの幟などが掲げられ、米米クラブのサポートメンバーとしても知られる三沢またろう氏が率いるサンバ隊の入場で賑やかにスタート。境内をお練りする際、銀冶が感極まるシーンもあったが、本殿をファンや関係者とともに参拝。奉納講談ではこの日のために選んだという「秋色桜」の読み物で観客を喜ばせた。席のうしろでは、銀冶の師匠であり、母でもある田辺鶴瑛が楽屋と会場を何度も行き来し、真打の講談を見守っていた。
「少しは成長の跡が見られましたかね」
師匠というよりも母の優しい表情で、鶴瑛はそう笑った。
9歳でデビュー「門前の小僧習わぬ経を読む」
講談とは、「話を読む芸」である。高座に置かれた釈台を前に張扇を叩いて調子を取り、「赤穂義士伝」などの古典や、現代の人物や事象で作られた新作を読む日本の伝統芸能である。新作講談の「東京オリンピック」で一躍人気者になったのが、鶴瑛と銀冶の師匠でもある田辺一鶴だ。その田辺一門で2年ぶりに真打となった銀冶。母娘での真打は、講談界では初である。江戸風にいうと「めでてぇな」ということだが、娘の真打昇進は鶴瑛曰く「いろんな山を越えてのこと」だった。
銀冶は、9歳の時、「田辺小むぎ」で講談デビューを果たした。
キッカケは、鶴瑛が一鶴の講談修羅場道場に通ったことにある。
「道場で一鶴の『三方ヶ原軍記』に出会って、素晴らしい話芸だな、身に付けたいと思って家で稽古をしていました。その時、娘が『門前の小僧習わぬ経を読む』で私が稽古していたのをいつの間にか覚えてしまったんです。『娘が覚えたんですよ』と師匠に告げると『この娘は天才だ』と感激して、私よりも先にデビューしたんです」
前座の修行が耐えられなくて
高校に入学すると講談協会に所属し、田辺一鶴の門下の前座見習いとしてスタート、その後、前座になった。ただ、どの芸の世界もそうだが前座は厳しい。挨拶の仕方はもちろん、楽屋では師匠の着物を畳んだり、お茶を出したり、「気働き」といって周囲に気を配って動くことが求められる。同級生たちは自分の好きなことをして、自分の将来を楽しそうに語り合っているのに、「自分は」と思っても無理はない。なぜなら銀冶にとって講談は「成り行きでたまたま縁があっての道で、自分で選んだ道ではなかった」からだった。
「前座の修業が辛くて、耐えられなくて……。私には他の道があるはずだ。講談と違う世界が見たいと思ったんです。高校を卒業した時、師匠に『私、講談やめたいんです』と言ったら師匠が『やめるのは簡単だから。今はまだ若いので休んで好きなことをしておいで』と言ってくれました。それでニュージーランドとか海外をあちこち歩いて回ったんです」