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悩みながら、迷いながら……講談界初の“母娘真打” 田辺銀冶が歩んできた道

2021/05/16
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海外で気づいた「日本の伝統文化」としての講談

 海外で出会った人達との交流は、銀冶にとっては「日本」という国と「自分のやりたいこと」を認識させてくれるトリガーになった。異国の同世代は、たとえ10代でも国の事を理解し、自分の考えを持っていた。外国への好奇心も強い。あなたの国、日本はどんな国で、あなたは将来どうするのか、彼らの質問は鋭かった。

「そういう質問に答えられなくて、恥ずかしい思いもしました。海外の人は、自分の国のことをしっかりと答えられるんです。そういう姿を見て格好いいなと思いましたね。その時、ふと講談を思い出したんです。そういえば講談は日本の伝統文化だな。もう1回やってみようかなって思ったんです」

 自分探しの旅は5年間ほどかかり、銀冶という名を受け、講談の世界に戻ってきた。

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 だが、2009年、一鶴師匠が亡くなると、銀冶は自分の行く末をどうすべきか、考え、悩み、迷いの淵に陥った。

 

他の師匠が取ってくれないと廃業に

 その様子を母は、心配しながら見ていたという。

「一鶴が亡くなった後、私の預かり弟子になったんですけど、どうすべきか迷っていましたね。ですから、『この先生の所はいいよ』とか、『講談とは違う芸人の道もあるよ』とアドバイスをしたんです。でも、本人が『どうしたいのか分からない』ということなので、私はもう動きようがなかったですね」

 前座だった銀冶は、どの師匠につくべきか迷っていたという。

「まだ一人前ではなかったので師匠の影響が大きいんです。真打になっているといいのですが、二つ目、前座は他の師匠が取ってくれないと廃業になってしまいます。自分の今後を考え、どの師匠に教えてもらったらいいのか、すごく悩みましたね。いろいろ考えて結局、母のところに行くのがいいねっていうことになりました」

 鶴瑛門下となり、一鶴逝去から2年後、二つ目に昇進した。芸を学びつつ、自分の好きな「読み物」ができるようになり、好きな着物が着られるようになると講談に対する思いがどんどん強くなり、楽しくなっていった。そこから真打に昇進するまで、もう迷うことはなかった。