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病気になるのは運命なのか

上橋 それは大切なご指摘です。2つの医学の根底には死生観や世界観の差異が横たわっているのですね。病について考えることは、生命観と直結してしまう。

 医学においては、「なぜ病んだのか」という問いは、病気と人体の関係を解き明かすための問いですが、一般の人にとっては、「自分がなぜ、このときに病んだのか」という問いは運命に対する問いかけにつながっています。自分が行った何らかの「行為」が「いけなかったのか?」と考えてしまう。「長い間タバコを吸っていたから肺がんになったのだ」ということなら、心のどこかで、仕方がない、自分が悪かったのだ、と思える部分があるのだけれど、タバコなど吸ったこともないのに肺がんになってしまったら、納得できない。なんで私が? と思ってしまう。

 その思考の筋道の裏側には、「病む」ということは「普通ではないこと」で、何か悪いことをしたから、その結果として、そういうことが生じたのだ、という考え方がある。

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 でも、実際は、そうではなくて、病の多くは、その人が為した行為とは関係なく、ただ、人間という生物の身体が、やがて病んで(あるいは衰えて)死ぬように出来ているから、なのですよね。

 病と行為とを結び付けたい気持ちは、よくわかるのです。その「悪い行為」がわかれば避けられるから。実際には、どう避けようと、やがて死が訪れるわけですが。

 なぜ、あの人は病に罹らず、あの人は罹ったのか。その原因がわからないとき、人はそこに運命の意図を見てしまったりする。神の手を見てしまったりする。

 西洋医学の科学的な思考は、そういう、宗教にひっぱられてしまいそうな思考を徹底的に排除し、間違いなく原因と結果が結びついているかをみようとする意思の表れであるような気がするのです。

 先生のご本の、科学とは何かという話のなかで、反証できるかどうかではなく、反証されそうな弱点を持っていながらも破られていないことが科学的だという話がありましたね。あれが、私にはとても面白かったのですが。

津田篤太郎さん

津田 2つの考え方が互いに反証しあうということが大事なんです。片方に偏ると考え方もできることも狭めてしまいます。西洋医学的に病巣にこだわってしまうと、死にゆく人への治療ができなくなったときに本当に手立てがなくなってしまいますし、東洋医学的に病巣の細菌が何かは見なくていいという考え方は、助ける術がある人に対して、助けられないという可能性が出てきてしまいます。両方の長所と欠点をわきまえて、使い分けられるようになっているのが大事なのです。統合を安易にしないといった中身はそこなんです。反証するために、対立点を残しておくことがなんとしても必要だと思っています。

上橋 調和は良いことのように思えますが、ちょうどいい落としどころで落ち着いてしまうと、人は納得して忘れてしまうので、むしろ、気になる、いらいらする部分を残しておかないと、自分が陥っている思い込みに気づかないものですしね。

津田 そうだと思います。自分は正しいと主張したいがために、矛盾点を消すことに必要以上にこだわる人がいますが、やっぱりそれでは現実と渉り合う上ではよくないんです。どこかに矛盾を残しつつどちらかを選ぶということを繰り返すのが現場の思考かなと思いますね。統合を求める人は、自分の中で対立する矛盾をもっていることが耐えられず、矛盾を消したい思いがすごく強いんじゃないでしょうか。その気持ちもよくわかるんですけれど、矛盾をどこかに残しておかないと、手詰まりになってしまう。私は人に誤りを指摘されることよりも、どこかで手詰まりになる恐怖のほうが大きいんです。