「土下座できないならば俺は会わない」
清二たちは様々な仲介者を頼りに義明との接触を試みた。仲介者たちは、義明が内縁の妻とひっそりと生活を送る長野県軽井沢を訪ねては説得を試みたが、結果は捗々しいものではなかった。堤家と古い付き合いがあり、義明とも懇意にしていた元参議院議員、義明と麻布高校で同級生だった弁護士……。彼らは複雑な義明の心を解き放つのではないかと期待され、軽井沢に赴いたが、そのわだかまりを解くことは叶わなかった。
もう80歳になろうとしていた義明は、時に上機嫌で(清二と)会ってもいいぞ、と言ったかと思うと、
「俺に会いたいのなら、今までの非礼を詫びて俺の前で土下座するのが先だ。土下座できないならば俺は会わない」
と、態度を豹変させた。
清二と義明の兄弟の不仲を案じて軽井沢まで足を運んだ関係者に、かつて“ハービー”の愛称でアイスホッケー界のスター選手だった若林修がいる。実兄の仁とともに若林兄弟といえば、日本アイスホッケーの代名詞のような存在だった。
若林兄弟はカナダ生まれの日系カナダ人で、先に来日し、西武鉄道のアイスホッケー部に所属したのは兄の仁だった。兄の誘いで修が来日したのが1969年(昭和44年)、同じく西武鉄道に所属した。
この兄弟に義明は自ら目を付け、獲得を指示した。JOCの会長も務めた義明のスポーツ好きは有名で、ゴルフ、スキーなどは相当な腕前でもあり、軽井沢に逼塞した後は、旧知のゴルフクラブで一般客がスタートする前にプレーをさせてもらっていたほどだ。
義明が熱をあげた代表的なスポーツが、アイスホッケーだった。70年代は今では考えられないほどにアイスホッケーの人気が高く、中でも必ず白熱した試合となったのが、西武鉄道vs国土計画(旧コクド)の同じグループ企業同士が闘う黄金カードだった。このカードはテレビでも放映され相当の視聴率を記録した。西武グループの総帥、義明は必ずリンクに足を運び、激しくぶつかり合う様を満足げに見ていた。
わけても若林兄弟は義明のお気に入りの選手であり、兄弟もそれに応えるように忠誠を示した。“ハービー”の兄の愛称は“メル”だが、ある時期、カナダに渡った義明の親族の生活の面倒を、メルが何くれとなく親身に見続けたこともあった。若林兄弟は、いわゆる“義明ファミリー”の一員だった。