1927年、西武グループの創業者堤康次郎と、愛人の青山操の間に生まれた堤清二は西武グループの中核企業の相続を許されず、事業を引き継いだのは異母弟の義明だった。清二は、場末だった西武を日本一の百貨店になるまで成長させ、ホテル経営やリゾート開発へも乗り出し、一代でセゾングループを育てていった。

 そんな清二が死の1年前、ノンフィクション作家・児玉博氏によるインタビューで家族について語った。母についての質問に言葉を見つけられず心の整理もままならぬ様子の清二。涙ながらに語った幼き日の母の姿とはーー。ノンフィクション作家・児玉博氏の『堤清二 罪と業 最後の「告白」』から一部抜粋して紹介する。(全2回の1回目/#2を読む)

1枚のモノクロ写真

 不思議な時間が過ぎた。正面に座る私の存在を忘れたかのように自問自答を繰り返し、納得する答えを探そうともがいている。杖を頼りにする時があるとはいえ、眼光には強い意志を宿らせ、驚異的とも思える記憶力、理路整然とした語り口で時に私を圧倒する清二が、言葉を見つけられず心の整理もままならぬ様子を見て、私は1枚のモノクロの写真を思い出した。

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 それはいつだったか、清二が持参した操の茶巾袋のような袋とともに見せてくれた写真だった。清二が丁寧に取り出した写真には、康次郎、操、清二、1歳年下の妹・邦子の親子4人が写っていた。清二が東京府立第十中学(現・都立西高校)に入学した時に撮影された家族写真である。

 説明の通りなら1939年(昭和14)4月のはずだ。真珠湾攻撃によって日米開戦の火蓋が切られる2年前。この写真を撮影した時も、すでに世上は緊迫の度を増していた時代だったろう。

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 胸に勲章をつけた礼服の康次郎は50歳。すでに衆議院議員当選6回を数え、民政党の誰もが認める大幹部であると同時に、実業家としては武蔵野鉄道(後の西武鉄道)の再建に目め処どをつけていた。自信に溢れる康次郎の左には、おかっぱ頭の邦子が、紋付を身につけた操は微笑を湛えて椅子に座り、その操の後ろに学生服を着た坊主頭の清二が立っている。

 写真で見る31歳の操は細面の美しい女性だ。さながら細い彫刻刀で薄く削ったような顔立ちは、どこまでも端整さが漂う。その背後に立つ清二はまるで操の生き写しのようだ。操と同じように細くスッとした鼻筋、切れ長の目元。涼しげな白はく皙せきの少年がそこにいる。しかし、目を凝らしてその表情を見ると、目元に微かな煙が立つような鬱屈が影を落としている。