1927年、西武グループの創業者堤康次郎と、愛人の青山操の間に生まれた堤清二。康次郎の築き上げた西武グループを引き継いだのは清二の異母弟・義明。一方、義明の兄でありながら、康次郎から西武グループの中核企業の相続を許されなかった清二は、西武グループとはまったく異なる「セゾングループ」を作り上げた。
生みの母を異にする清二、義明兄弟の確執はどんなものだったのかーー。ノンフィクション作家・児玉博氏の『堤清二 罪と業 最後の「告白」』から清二と義明の関係について一部抜粋して紹介する。(全2回の2回目/#1を読む)
清二と義明
清二が、自らの能力を頼りに地平を切り開こうとしたのとは対照的に、義明はある意味、律儀に康次郎の教えを守り抜こうとした。
康次郎は自らが早稲田大学で柔道部に所属していたこともあり、東京・麻布の米荘閣の敷地内に柔道場を作り、義明に日課のように柔道に取り組ませた。早稲田大学に進学した義明が観光学会のサークルに所属し、卒論に書いた研究内容が、後に「大磯ロングビーチ」として具現化したという逸話は有名だ。
一方で早稲田進学にあたり、康次郎が義明に柔道部に所属することを条件としたことは、あまり知られていない。義明はそれを従順に守った。名前だけの柔道部員ではあったが、05年3月に証券取引法違反容疑で逮捕され、西武王国の“天皇”の座を追われてからも、義明は毎年5000円のOB会費を律儀に払い続けている。
義明が逮捕された後、西武グループは銀行から送り込まれた後藤高志主導で経営再建を目指した。清二は、父康次郎の時代から築き上げて来た有形無形の遺産を意図的に壊していく経営手法を「銀行屋の数字合わせだけの経営」と厳しく指弾し、弟の猶二らと共にコクド株の所有権確認訴訟なども起こした。
意図的に堤家が西武グループから排除される状況下で、経営の主導権を正常な形に戻す、つまり真正な株主である堤家の意向を経営側は汲むべきだという主張を通すために、最も有効だろうと清二が望みを託していたのが、実は義明と手を結ぶことだった。2012年当時、西武ホールディングスの筆頭株主は米投資会社「サーベラス・キャピタル・マネジメント」(持ち株比率はおよそ32.4%)。サーベラスに次ぐ第2位の株主は14.95%を持つNWコーポレーション、かつて西武グループの“持株会社”だった旧コクドだ。そして、このNWコーポレーションの最大の株主で、他の株主にも圧倒的な影響力を持っているのが義明なのである。つまり義明個人が第2位の株主といっても過言ではない状況だった。
サーベラスとNWコーポレーションの株式を合わせれば西武グループの株の過半数を押さえられる。清二と、行動を共にする康弘、猶二がそう考えるのは必然だった。