1927年、西武グループの創業者・堤康次郎と、愛人の青山操の間に生まれた堤清二。幼少期から、康次郎と清二が一緒に暮らすことはなく、康次郎はたまに家に来ては操と体を重ねていたという。
次々と愛人を抱え、有無を言わさぬ暴君のような立ち居振る舞いの康次郎に、憎悪を抱いていた清二。そんな清二が、死の1年前に父への思いを口にした。2人の関係は一体どんなものだったのか。ノンフィクション作家・児玉博氏の『堤清二 罪と業 最後の「告白」』(文春文庫)から一部抜粋して紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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「先日、父の生まれ故郷に行って来ました」
清二との初の対面を終えた10日後、最初のインタビューが叶った。場所は東京・銀座にある「ホテル西洋銀座」(平成25年閉館)だった。
7月初旬。すでに暑さは夏のそれであったが、清二は淡い薄緑のリネンのジャケットを身につけていた。砂糖とミルクを入れコーヒーを丁寧に混ぜている清二に、
「堤さんにとっては思い出深いホテルですね」
と、声をかけた。清二はソーサーにスプーンを置くと、目を泳がせるような仕草をして、話しはじめた。
「そうですね……。ここは猶二君(堤猶二=堤家の末弟)が骨を折ってくれましてね。いいラグジュアリーホテルでしたが……」
清二が言うように、1987年(昭和62)にオープンしたこのホテルは部屋数わずか77室。1部屋の広さは30畳以上で、客室あたりの料金は平均7万円、すべての客室にコンシェルジュがついた。
80年代、清二は、消費者の意識を根本から変えようとした“セゾン文化”の主導者であり、「おいしい生活」の御旗を掲げる消費社会の革命家であった。そのセゾン文化の代表がこの「ホテル西洋銀座」だった。
しかし、オープンから25年、相次いだ外資系ラグジュアリーホテルの進出などと相まって、かつての輝きを求めるのも酷な話だった。インタビュー当時は、水面下で身売り話も現実的なものになりつつあった。
そのホテルの一室に、清二の声が静かに響いた。
「先日、父の生まれ故郷に行って来ました」
地元、滋賀県の商工会の招きを受け、清二は父、康次郎についての講演をしてきたとのことだった。
康次郎が滋賀県愛知郡八木荘(えちやぎしょう)村(現・愛荘町)に生まれたのは1889年(明治22)のこと。一代で西武コンツェルンを作り上げた康次郎の生家は、観音堂と寄り添う形でともに保存されている。清二によれば、表札には「堤義明」と書かれていたそうだ。