「少しは親孝行できたかな」
作家、辻井喬の自伝的小説『いつもと同じ春』(1983年)の中にこんな一節がある。
〈父の作った環境に捲き込まれまいと身を躱してきたはずなのに、父の所業は、追い払っても消えない暗雲となって執拗に追跡をやめない。戦争中、生きるために人肉を喰くった兵士の背後には、ひかり苔が発するような紫の輪が月夜の晩に浮び上るという話を聞いたことがあるが、父もやはりそのような光背を背負って走り続けたのであろうか。指導者はみんなそのような業から逃れられないのだとも思う〉
〈自分も同じような紫の輪を背負っているのを忘れないようにするのが、私に出来るたったひとつのことだという気もする〉
そして、清二は衆議院議長に就いた康次郎の秘書官となった。首相は5回目の内閣を組織した吉田茂だった。
「今から思えば、秘書官になるなど軽率だったなとは思いますが……。大体ですね、西武(鉄道)から来ていた秘書官がダメだったんだな。父に𠮟られるから萎縮しちゃってね」
清二にすれば、衆議院議長の秘書官は、例えば議院運営委員会が延びそうだとか、予算委員会が紛糾しているなどと先々を読み、指示が来る前に万端を整えておかねばならない職務だ。清二は、西武鉄道から来ていた秘書官のあまりの無能さに、父が哀れにさえ思えていた。ついに見るに見かねて言ったという。
「私でも役に立てるようでしたら秘書の補佐くらいやってもいいですが」と。生来の利発さ、共産党活動で身につけたであろう組織内での身の処し方、行動力が、永田町でも通用したようだ。清二は有能な秘書官となり、父を支えた。
「康次郎さんの反応はどうだったのですか?」
こう質問すると清二はまるで昨日に起きた出来事のように、
「ええ、嬉しそうな顔をしましてね……、ええ、『そうかやってくれるか』ってね。それは嬉しそうでしたね。その顔を見た時に『少しは親孝行できたかな』と思いました」
と、顔をくしゃくしゃにした。心から喜んでいるような表情だった。
しかし、堤清二という生き方と“親孝行”という言葉ほど似つかわしくないものもないように思えた。清二の口から語られる“親孝行”という言葉には、どこか舌にからみつくような違和感が残り続けた。
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