「父との約束なんです」
しかし、清二はいかにも権力者の墓、古墳のような設しつらえ自体を嫌悪していた。ましてそれを、忠誠の道具のように使うことを忌み嫌っていた。勢い、鎌倉霊園への足は遠のくばかりだった。
その清二が正月の三が日が明けた頃、家族を伴い父の墓前に額ずくようになったという。清二の胸中になにが起こったのだろうか。
「なぜ墓参をするようになったのですか」
清二は入れ替えられたコーヒーをすすった。
「そうですね……、やはり父とね、父と約束をしていたから……」
清二はこう続けた。
「父が亡くなる2ヶ月くらい前ですかね。たまたまですが、(静岡県)熱海の別荘でね、父と約束したんですよ。『なにかあったら僕が義明を助けますから、安心して下さい』って。父は笑って頷いてたな」
父との約束─。にわかには信じ難い言葉を口にした。
清二は父との約束を守るためにその墓前に額ずき、一度は捨てた“堤清二”に戻ることを決意したのだという。
康次郎が心筋梗塞に倒れ、75年の人生を閉じたのは1964年(昭和39)4月26日。清二が37歳の時のことだった。およそ50年前に父親と交わした約束を果たすために、80歳を越えた息子が一度は脱ぎ捨てた「堤清二」の衣を纏(まと)おうというのだ。
「50年、半世紀も前の約束ですね」
清二は大きく頷き、繰り返した。
「そう。父との約束なんです」
清二の表情は平穏そのものだった。何か奇をてらっている様子はみじんも感じられなかった。
清二が父、康次郎に絶縁状を出したのは、東京大学経済学部に在籍していた学生時代だった。
「文面はもう忘れました」
正確に言うならば絶縁状ではなく、自ら求めて勘当を願い出たのである。
当時、清二は東大の同級生だった氏家齊一郎(元日本テレビ放送網会長)にオルグされ、渡邉恒雄(読売新聞グループ本社主筆)らとともに共産党の“細胞”として活動していた。康次郎が忌み嫌った“アカ”の活動家だった。