清二の生い立ち
この頃、操、清二、邦子の3人は、前年に康次郎が手に入れた、東京・麻布の3000坪を越える大邸宅「米荘閣」に引き取られていた。米荘閣とは、康次郎の出身地の滋賀県八木荘の地名から付けられた通称である。それまで親子3人が肩を寄せ合うようにして過ごしていた東京都下三鷹での質素な暮らしから生活は一変していた。しかし後に、1969年(昭和44)に発表した初の自伝的小説『彷徨の季節の中で』の扉で、辻井喬は次のように記している。
〈生い立ちについて、私が受けた侮蔑は、人間が生きながら味わわなければならない辛さの一つかもしれない。私にとっての懐かしい思い出も、それを時の経過に曝してみると、いつも人間関係の亀裂を含んでいた。子供の頃、私の心は災いの影を映していた。戦争は次第に拡がり、やがて世の中の変革があった。私は革命を志向したが、それは、外部の動乱ばかりが原因ではない。私のなかに、私の裏切りと私への裏切りについて、想いを巡らさなければならない部分があった〉
生い立ちについて、私が受けた侮蔑……。心の中を覗けば、そこに母操が、自分と妹の邦子の2人を抱きしめ、幼少の頃住んでいた三鷹市を流れる玉川上水のほとりに立っている姿があった。表情ははっきりと見えないが泣いているのか、それとも必死に涙をこらえているのか。強い風が吹いていたのか、母の髪の毛が乱れている。
またある時は、父康次郎の前で腕を組み、精一杯に足を踏ん張り、怒りの表情を隠さない邦子の顔が見える。父は許せないとはっきりと口にも態度にも示していた邦子。背負わされた父康次郎という宿命に翻弄されまいと戦い続けた女性だった。そんな、今思えば健気過ぎるほど健気な姿が、ありありと浮かんでくる。
辻井喬は、終生愛し続けた2人の女性、邦子と操をそれぞれモデルにした小説『いつもと同じ春』(83年)と『暗夜遍歴』(87年)を発表しているが、どちらの小説もその根底に流れる色調は重く暗い。康次郎という、他者の人生を巻き込まねば収まりがつかぬような人間に、自らの運命を翻弄され続けた家族の記録であり、抗しきれない運命を受け入れた者の肉声でもあった。