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「舞台は田舎だが、都会の人が見ても感情移入できる」「4人の少年の心の交流や絆は自分たちにも経験がある」「環境の違いはあっても12歳を共に過ごした友だちをみんな忘れない」「少年同士の強い絆には万国共通の普遍性がある」と監督のロブ・ライナーも語っているが、そのとおりだと思う。

冒険を機に見えた、友だちとの「境界線」

 しかし、観ていて本気で響くのは、そうした表層的なノスタルジーの数々ではない。10代のはじめに感じ出す痛み、いやがおうにも突きつけられる現実といった深層的ノスタルジーとでもいうべきものなのだ。

 スティーヴン・キングは、「愉快な話が多いが悲しい話もある」「子供の頃の思い出を何とか一つの物語にまとめられないかと長年考えていた」と原作について語っているが、映画でも、愉快な話よりも悲しい話のほうが多いように思う。

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©1986 COLUMBIA PICTURES INDUSTRIES, INC. ALL RIGHTS RESERVED.

 ゴーディは、大好きな兄を亡くしたうえに、彼を偏愛していた親に疎外されていると感じている。クリスは、酒に溺れて暴力を振るう父、エースとつるむ不良の兄と暮らしていることから、周囲から白い目で見られており、自身も兄や父と同じ道をたどるものだと考えている。テディは、戦地で負ったトラウマで精神を病む父親に熱したコンロで耳を焼き潰された過去がありながらも、彼を深く尊敬している。すでに背負っているものが、辛くて悲しいのだ。

 そんな彼らが森の中で体験したさまざまな出来事を通じ、改めて自分と向き合い、友だちが抱いている負の感情や苦しみを目の当たりにし合うのだ。

 深夜、見張りをするクリスの隣に座り込んだゴーディが「(中学では)ぼくと進学組に入ろう」「君は勉強ができる」と誘う。だが、クリスは「ありえないね」「ムリだ」「みんな家庭で判断するからさ」「ぼくは家庭が悪い」と答え、彼の家柄が引き起こした、給食費泥棒をめぐる事件を語り出すシーンにはいたたまれなくなってしまう。

 さらにほろ苦さを感じてやまないのが、いつまでも続くと思っていた友情や関係に終わりが近づいているのを悟ってしまう点。うすうすとは感じていた、友だちとの間にある線みたいなもの、友達とは一緒に歩いていけない道みたいなものがはっきりと浮かんでくる。

 焚き火を囲み、作家を夢見るゴーディが“パイ食い大会に参加した肥満児が、とんでもない方法で自分をバカにする連中に復讐する”話を語って聞かせる。クリスは満足した様子で聞き終えるが、テディは「それで? どうなった」と話が終わったことが理解できず、バーンは「彼、競技の参加費は?」と気にしなくていい部分にこだわり出す。それを受けて戸惑うゴーディの表情には、なんだか胸が締め付けられる。

 友情が変わる決定打となるのが、少年の死体を前にエースたちと出くわすシーン。死体は自分たちのものだと迫るエース、絶対に渡さないと動こうとしないゴーディたち。エースがナイフを取り出すと、テディとバーンは一目散に逃げ出してどこかに消えてしまうが、クリスとゴーディは絶対に引かない。

 対決が終わり、しれっと戻ってきたテディとバーンを一瞥するクリスの眼には彼らに対する、怒り、呆れ、“もう、こいつらとは一緒にやっていけない”という悟りなどが混じっている気がしてならない。