パンドラの箱を開けた
しかし、わかることもある。知恵を振り絞って意見を出し合い、どんな意見もタブーにせずに光が当たるところで議論していくことでしか私たちは生き残ることができない。
出生前診断を受けたいと思う気持ちを排除しない。
産めないと思う人を責めない。
産みたいと思う人も受け入れる。
生まれた子も大切な仲間として共に育てる。
違う意見であっても互いに認めて議論していく。
技術はそれでも進歩する。追いつけないかもしれない。けれど、私たちは文化という知恵を持っている。その武器を持ち、対話を積み重ねることが私たちを救うことになるのではないか。
光の裁判は「こんな裁判を起こすことが問題だ」と何度も言われた。インターネットでも識者からも責められた。私がこの裁判を取材し、文字にすることを暗に責めている人もいるように感じた。
それでも問いかけたかった。
光は私たちが放置してきた母体保護法の矛盾、優生思想、医療の疲弊、そんなねじれの中に陥ったのだ。そこから見えてくるものは大きい。パンドラの箱を開けたのだ。開いても皆が無視して、なかったことにするかもしれない。本人もそんなつもりはなかったかもしれない。それでも開けたのだ。
傷つけるかもしれない。不快感を持たれるかもしれない。恐る恐るであった。それでも、私はどうしても聞きたかった。
岩元に光の裁判のことを話した。
岩元は詰ることなく、怒ることもない。静かに考えた末に、こう語った。
「赤ちゃんがかわいそう。そして一番かわいそうなのは、赤ちゃんを亡くしたお母さんです。検査を受けざるを得ないことがかわいそう。苦渋の選択を迫られるお母さんはかわいそう」
岩元は誰よりも光の悲しみの核を見抜いていた。
「私が言えることは、生まれてきて良かった、産んでくれてありがとうということです。できたら妊婦さんには授かった命はまっとうして欲しいけれども、個々人の事情によってはできないこともあるから、もしもまっとうできなかったとしても、今ダウン症として生きている命があることを忘れないで欲しい」
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