今春、紀州のドン・ファン殺人事件の容疑者逮捕に揺れた和歌山県田辺市。だが、カネと愛欲に彩られたミステリー小説ばりの大事件の陰で、もうひとつの地味な事件が起き、人命が失われていたことはあまり知られていない。
2021年5月12日午後、市内のアパートの一室で、ベトナム国籍のグエン・クオック・カー(以下カー容疑者、23)が、同じくベトナム国籍のグエン・マン・ホア(以下ホア、38)を刺殺したのだ。加害者も被害者も「グエン(阮)」姓。もっとも、ベトナムでは人口の約4割がこの姓であり、両者に血縁関係はない。
著書『「低度」外国人材 移民焼き畑国家、日本』(KADOKAWA)をはじめ、コロナ禍のなかで困窮する在日外国人問題に切り込んでいるルポライターの安田峰俊氏が、「紀州のグエン」殺人事件を徹底的に追った。
雨の午後、上半身裸で裸足の男がやって来た
──その日もやはり、冷たい雨が降る陰気な日だった。
田辺市下万呂、左会津川沿いにある集落には、築年数すら定かならぬ長屋がある。午後3時20分頃、長屋の住人である72歳のAさんは、玄関先に人の気配を感じた。引き戸を開けると、奇妙ないでたちの3人の若い男が傘もささずに立っていた。
「みんな“外人”でしたわ。年齢のころは20~30代。ひとりは上半身裸で下半身は短パン、裸足でした。その上半身裸の子が、片言の日本語で救急車を呼んでくれと言うんです。だから、隣の○○さんに救急車を呼んでもらった。僕は彼らから付いてきてくれと言われたから、アパートに行ったんです」
彼らのアパートは長屋から15メートルほど離れた場所にあった。Aさんの記憶では、若いベトナム人男性らが近所で暮らし始めたのは2021年の4月中旬頃からだ。那智勝浦町に本社を置く、太陽光パネルの設置などを手掛ける建設会社の自動車がしばしばやってきて、彼らをピックアップしていたという。
血の海から消えた男たち
近隣住民の多くは外国人労働者たちを敬遠していたが、Aさんは自宅を訪ねてきた3人との面識があった。ある朝、新聞を取る際に出勤前の彼らと挨拶を交わしたことがあったからだ。逆に言えば若者3人にとって、Aさんは異国の生活のなかで唯一、わずかながらも接点を持った日本人だった。
こうした奇縁ゆえに、Aさんはとんでもない場面を目撃することとなる。
「(3人に連れて行かれたアパートの)玄関から上がった場所が板の間になってて、のぞき込んだら全身血まみれの人が横向きに倒れてたんです。床は血だらけで。食べかけの食事が入った皿やら、飲み物のコップが散らばってました。直前まで宴会でもしていたような感じですな。刺した人はもう、現場にはいなかったです」
そして、Aさんは凄惨な現場でさらに奇妙な光景に出くわした。