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京急“ナゾの途中駅”「鮫洲」には何がある?

「東京の人はみんな鮫洲を通ってゆく」

2021/05/31
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「鮫洲」のすぐその先はもう東京湾だった

 かつての東海道は、品川駅のすこし南にあった品川宿を出ると、次の川崎宿まで海の際を通っていた。つまり、鮫洲駅のすぐ近くの東海道のさらにその先は、もう東京湾だったのである。それは江戸時代に限らず、明治に入っても大正になっても海のまま。この一帯にはごく小さな漁師町があるばかりだったという。ほどよい賑わいの旧東海道の商店街は、そうした時代の残り香なのだろうか。

 

 旧東海道を横切って先に進む。すると、次は「元なぎさ通り」といういくらか大きな通りにぶつかった。この通りの名前も、このあたりがかつて波打ち際だったということから名付けられたものだ。そしてこの元なぎさ通りをも横切って細い道を抜けた先に、大きくてクルマ通りも多い立派な道に出る。この道沿いに、鮫洲の運転免許試験場はあるのだ。つまり、かつて海だった場所に運転免許試験場がある、ということになる。

 

 運転免許試験場の前の大通りを少し南に向かって歩いてみる。するとすぐに鮫洲ポンプ所という古めかしい案内板を掲げた東京都下水道局の施設があって、その先には橋が架けられている。橋の下に流れているのは勝島運河。橋の向こうの町は“勝島”だ。勝島の著名な施設というと、縦断している首都高羽田線と大井競馬場。しながわ水族館も勝島にある。もちろん、埋め立て地だ。運河に囲われた勝島という埋め立て地と、陸続きの埋め立て地のちょうど境目のような場所で、人々は運転免許を求めている。

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1943年、海軍に命名された「勝島」

 鮫洲一帯が今のような埋め立て地の広がる街になったのはいつのことなのだろうか。明治から大正、そして昭和にかけて、東京湾の埋め立ては少しずつ進んでいった。特に現在の品川駅の東側の埋め立ては早くに手がつけられた埋め立て地で、鉄道輸送量の増加に伴ってそのための広大な施設を確保するという目的がひとつあったようだ。このエリアの埋め立てはおおよそ昭和初期には完了している。

 鮫洲はまさにそうした埋め立て地のすぐ南側にあって、こちらは少し遅れて昭和に入って工事がはじまった。そして1939年に京浜第一区埋立地として、勝島の埋め立てがスタート。勝島が完成したのは戦後の1949年のことだが、1943年には当時の海軍省によって「勝島」の名が与えられている。太平洋戦争まっただ中のご時世、戦争に“勝つ”という思いが込められていたのだろうか。

 ともあれ、今の埋め立て地の鮫洲はこのようにして完成した。新たに土地が生まれれば道路も通ってビルも建って人も住む。こうして時代とともに鮫洲は現代的な装いの臨海地区と古き歴史を持つ旧東海道がせめぎ合う、そんなエリアになったのである。