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月収300万円もあった時代からスーパーで残飯を拾って食べる生活に…沖縄の“売春街”で働いた女性の“哀しすぎる証言”とは

『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』より #1

2021/06/15
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「私は売春だけはしませんでした」

「中学を卒業してから不良してたんですが、15歳のときに内地の横浜の美容学校に行くことになりました。でも、何か不安になって17歳のときに沖縄に逃げ帰ってきたんです。親は無理して内地に出してくれたわけですし、沖縄に帰ってきてしまったことは親にも内緒にしていました。住むところもありませんでした。だから那覇市前島のキャバレーに住み込みで働いていましたよ。おさわりキャバレーでしたが、じっさいはお姉さん(ホステス)たちは店の中で本番してました。でも、私はしませんでした。そのとき私は17歳で処女だったんです。その店には1年ぐらいいましたね」

──横浜に行ったときは沖縄は本土復帰してましたよね?

「ええ。日本復帰の数年後でした。那覇のキャバレーでは、いつまでも住み込みはいやだったので、おカネを稼いでアパートを借りたんです。キャバレーは日払いだったので、その日に稼いだおカネで姉さんたちとよくディスコに行ってました。ディスコで知り合ったお姉さんに、今はもう潰れましたが、有名なRというダンスホールに連れて行ってもらいました。そこはすでに返還された基地の近くで、ヤクザのたまり場みたいにもなっていた。Rでは、内地の人や外人相手の売春も行われていました。夜12時に店を閉めて、裏にあったホテルでするんです。だいたい3万円ぐらいが相場でした。私はあるとき、人気ホステスについて行って、そのホテルに行ったんです。そうしたら、だまされていたみたいで、私が売春をするという話がついていた。私は泣きじゃくって、おカネはいらないから帰ると言ったんです。相手は60代の人でした。そうしたらおカネだけくれて、帰してくれましたけど」

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──それはショックだったでしょう?

「その出来事がショックでキャバレーをやめました。それと、ディスコで知り合ったヤクザに前島のキャバレーで働いていることがバレて、ストーカーみたいにつきまとわれたこともあります。飲みに行こう、飲みに行こうとしつこかった。逃げるようにして、それからは那覇市内のスナックをあちこち転々とするうちに19歳か20歳になってました。でも私は売春だけはやらずに、ビール1本1000円のチケットを横においてあとで精算するやり方で稼いでました。それを私たちは“チケット稼ぎ”と言ってました。現金よりチケットのほうがお客さんがどんどん頼んでくれるんですよ。このやり方は昔からあったみたいです。お店でわざとブルーフィルムを見せたり、フィリピン人ダンサーがストリップを見せたりすると、お客の男たちは興奮してトルコ風呂(ソープランドの旧称)に行ったりしてました。客と交渉して売春をしていた子もいました。けれど、私は売春だけはしませんでした」