「それ、虐待じゃないですか」
「ああ、僕ね。影とはもう10年くらい会話ないから」
「カゲ?」
「だいぶ前にね、僕と結婚したらしいタイの女のこと」
「奥さん、ですか」
「そうとも言うね」
自宅は高級住宅も並ぶエカマイのけっこう大きな一軒家だと聞いた。その広い家で仮面夫婦はもはや顔を合わすこともなく、「ときどき、影だけ見えることがあるんだよ」という。
だがしかし、子どもたちはまだ学生のはずだ。例えば学校の行事とか、進路の相談とか、親も交えて話さなくてはならないこともあるのではないか。
「そういうの全部、娘経由だから」
母から父への連絡、父から母への報告、そのなにもかもをまだ中学生の娘が橋渡しをし、代弁しているのだという。酷であった。言いにくいことだったが、つい口に出てしまった。
「それ、虐待じゃないですか」
「わかってる」
辛そうに言う。
だから家に帰らずに犬と戯れ、毎晩のようにアユタヤの工場からバンコクの夜の街に流れてさまよっているのかもしれない。いつも寂しそうな顔をしている人だった。
バーを過ぎると雰囲気が変わり……
「春原さん、ちょっと流しましょうよ。最近けっこう変わってるんですよ、このへんも」
話題を変えて、地下室を出る。地上に上がってもあふれた女たちがまわりをうろちょろし、声をかけてくる。屋台が群れなすスクンビットを、西側に歩いていく。夜11時を回り、衣料品や土産物の屋台は片づいて、代わりに簡素なバーが出る時間帯だった。激しく人が行き交う歩道をさらにバー屋台が埋めて、そんな小さな店でも看板娘たちが働いており、男たちの手を取る。なかには日本人経営のところもあって「ビール冷えてマス」とかノボリを立てている。
バーの森を過ぎると、スクンビットはまた雰囲気を変える。
「モシモシ……」
通りすがりに舌足らずな日本語で話しかけてくるのは、豊満というか巨漢の黒人娘たちであった。そのまわりにはラジカセ持って踊ってそうなブラザーたちがたむろし、草食モンゴロイドを威圧している。このあたりは黒人のナワバリであった。彼女たちはなにをカン違いしているのか、僕たちが電話の呼びかけのときに言う「モシモシ」を「ヘイ、ユー」「ハロー」的な意味と思い、スクンビットを行き来する日本人風の男と見ると投げかけてくるのである。
「ねえムロハシさん知ってる? この人たちスクンビットでもさ、2か所に分かれてたまってるでしょ。ソイ(編集部注:小路を指す言葉)13のあたりと、ソイ5のあたり」
言われてみれば確かにその通りだ。黒人たちはBTSナナ駅を挟んで、東のソイ13のパクソイ(編集部注:小路の入り口を指す言葉)と、西のソイ5のパクソイに固まっているのだ。
「あれねえ、実は文化や言語によって分かれてるんだよ。アフリカってほら、地域によってフランス語圏と英語圏があるでしょう。旧宗主国の違いで。スワヒリ語やアフリカーンス語とか、ローカルな言葉のほかに」
「聞いたことあります」
「ソイ13には、ナイジェリアを中心とした西アフリカ、フランス語圏の人たちが集まってる。ソイ5は、ケニアやタンザニアとかの英語圏、東アフリカのナワバリ。同じアフリカでもだいぶ違うんだよね」