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 今回、AIとVRで再現する対象として、母親という存在が思い浮かんだのには、実はかなりたくさんの理由があります。まず、親の変化というものを、この年になるといろいろな形で経験したり、人からもよく聞きますよね。認知症になって自分を認識できなくなった親の話など。そうした「親の同一性」について、近年考える機会が多かったことが、この設定に影響を与えているように思います。また、家族内でのコミュニケーションの形が、日本と海外とでは大きな違いがあることにあらためて気づいたのも大きかった。

ボディコンタクトの少ない日本人

中村 主人公が、母とほとんどボディコンタクトをしたことがない、と回想する場面がありましたね。

撮影:三宅史郎/文藝春秋

平野 欧米の人たちは、家族間のボディコンタクトがすごく多いですよね。お父さんが娘と、お母さんが20歳ぐらいの男の子とビズやハグし合うのも普通です。でも僕も含め、日本人の一般的な男性は、思春期以降ほとんど母親の身体に触った記憶がないんじゃないか。その状態からいきなり介護でまたその身体に触れることになる。そのことについて、あらためて「それってどういうことなのかな?」と思ったんです。

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撮影:三宅史郎/文藝春秋

 それからもう一つ、僕は父を早くに亡くしています。それで、いわゆる母子家庭だったんですけど、地方在住で、祖父母の家で育ったこともあり、都市型のそれとはちょっと違っていました。同じシングルマザーでも、田舎と都市部とでは、子どもの面倒を見てくれる存在の有無など、置かれる状況はだいぶ異なります。しかも僕の場合、祖父が歯科医でまあまあ裕福だったこともあり、父はいないものの生活には苦労しなかった。もっとも、僕も子どもの時から「父親がいない」という現実に自覚的でしたし、そのことによって、母親が父親の代わりもしなければいけないとかなり意識的に振る舞っていることも認識していました。例えば子ども時代なら、一緒に座敷で相撲を取ってくれたり、生まれてこのかた一度もグローブなんて手にはめたことないのに、キャッチボールの相手をしようとしてくれたり。そうした「母性」を超えて、「父性」をも引き受けなければならないと意識的になっている母親というものが、自分の中には長年大きな存在としてあった。だから僕は、「父親/母親」と一般化した形で語ることがすごく苦手です。フロイトを読んで、ピンと来ないのもそれが原因でしょう。自分が彼の説く図式に全然当てはまらないし、いわゆるエディプス的な対象というのが、僕にはまったくなかったので。