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平野啓一郎「子どもの時から『父親がいない』という現実に自覚的でした」 中村佑子と語るデジタル時代の‟母性”とは

『文學界』2021年7月号より

source : 文學界 2021年7月号

genre : エンタメ, 読書, ライフスタイル, 社会

note

中村 では、平野さんの中には、長らく一般的な意味での「母像」というものに対する違和感があった、ということでしょうか。ただ『本心』では、朔也の仕事が安定したりコミュニケートする相手ができたり、生命の維持がある程度保証されたタイミングで母の存在が薄くなります。つまり、生前の母とVFの〈母〉が、朔也の生命維持=ケアを担ってきたということです。それを担うのは父親でもおばあちゃんでも赤の他人でもいいのですが、この小説では朔也にとってそうした相手は母親しかおらず、それすらも失った状態から物語は始まります。

「マザリング」とは何か?

マザリング 現代の母なる場所』(中村佑子著)

平野 家族を含め、あらゆる他者というものは、やはり経験的な存在だと思うんです。自分がその人に触れて、つまり経験することによって、こういう人なのだと知っていく。そんな中で、特に家族は、極端に経験的な存在ではないでしょうか。僕にとっての母も、そうした存在でした。でも一方で、制度的には家父長制に基づいた母像というものがあり、それは未だに、社会において大きな存在です。そして多くの人が、そうした「公の母像」と、自身の「経験的な母像」との間に少なからざるギャップを感じている。中村さんが「母」という存在を再定義しようと書かれた『マザリング 現代の母なる場所』でも、母親になるという経験の中で再認識した母像を通して、ご自身の母親という存在が相対化されていきます。

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中村 マザリングという言葉には、手垢にまみれた「母」を超える、あるいは性差を超えてマザリングを発揮することによって資本主義社会への抵抗を目指そうというような思想が流れているんです。私たちの生きている社会を眺めてみれば、虐待件数も孤独死も自殺者もものすごく多い。にもかかわらず、ケア従事者、保育者、医者を始めとする、他人の生命を維持しようとするエッセンシャルワーカーたちは格差社会の犠牲になっていて、賃金も低く、社会の周縁に追いやられているような状況にあります。コロナ禍によって、その実態が表面化してきたのが今の日本の姿ではないでしょうか。そうした中で、ケアを担ったり、ケアを中心に据えるという考え方は、何でも数値還元してしまうグローバル化した資本主義社会に対するある種のアゲインストなんだ、と。性別も年齢も立場も問わず、あらゆる人々がケア的な考え方に傾倒していくことで、もっともっとこの社会をマザリングのベールで覆ってしまいたいという、身体的な欲求に基づく思想と言ってもいい。今の社会にはそれが足りなすぎるんです。