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小田急&JR“ナゾの途中駅”「町田」には何がある? “神奈川県町田市”感はいつから?

2021/06/07

genre : ライフ, 歴史, , 社会

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あれ、横浜との結びつきが強いなら…?

 ならば一層ナゾは深まる。横浜との結びつきが強いなら、それこそ神奈川県町田市になればよかったではないか。どうして仲間はずれになるとわかっていて(?)東京都町田市になったのか。

 

 実は、1871年の廃藩置県以降しばらくの間、町田市を含む三多摩地域はまるごと神奈川県に含まれていた。町田だけでなく、奥多摩も調布も武蔵野もすべて神奈川県だったのだ。ところが1893年に三多摩地域すべてが東京府(現在の東京都)に編入される。それが今にまで引き継がれて、東京都町田市になったのだ。

 

 この東京編入の背景に何があったのか。都心の水源が多摩地域にあったからだとかいろいろな説があるようだが、ひとつに当時盛んだった自由民権運動が関係しているとする見方が有力だ。

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 多摩地域は自由民権運動を牽引する自由党(あの板垣退助の自由党である)の力が強く、いわゆる“自由党の牙城”になっていた。当時の自由党はいわば反政府。なので自由党が勢力を広げる多摩地域を抱えていることは神奈川県にとってやっかいな問題であり、当時の内海忠勝神奈川県知事が東京への割譲を願い出た、というのである。ずいぶん強引に感じるが、政治家というのはいつの時代もそんなものなのだ。

 こうして東京都町田市は成立した。もとはといえば、町田や八王子などがともに“南多摩郡”に属していたから、まるごと東京に移されても文句は言えまい。町田だけ神奈川にしてよ、などという義理もない。ただし、「絹の道」のおかげもあって横浜、神奈川との強い結びつきは途切れぬままに今に至っている。だから“神奈川県町田市”感が今でも残っているのである。

町田駅前に繁栄をもたらした大功績者

 ちなみに、かつては今の町田駅前の繁華街を通っていた「絹の道」は、その後形を変えて国道16号になった。南口のさらにずーっと南を通っている国道16号である。とうの昔に八王子も生糸の産地ではなくなって絹を運ぶことはないけれど、少なくとも国道16号とその前身の「絹の道」は、町田駅前に繁栄をもたらした大功績者といっていい。そして明治初めの“政治”に翻弄された歴史が、東京都町田市には刻まれているのだ。

 

 まあ、そんなことは町田駅前を歩く人たちにはさして関係がないことだ。そして町田が東京都だろうが神奈川県だろうが、人々の暮らしにあまり影響はない……と思っていたはずがまさかのコロナ。突然、“都県境”の存在がクローズアップされてしまって、町田の人たちは何を思うのだろうか。もちろん今の町田駅、神奈川県との結びつきは強いままである。

写真=鼠入昌史

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